13. 耳鳴り
その日の夜は特に寝苦しかった。何度も寝返りを打つ。
夜が明ければ壬生に行って、自分の目で確かめようと思うのだが、
その夜がとてつもなく長く感じる。
浅い眠りの中で、気味の悪い怖い夢を繰り返し見た。
表が明るくなってくるとほっとして、早々と床を上げる。体が重い。
体調とは反して、外の冷たい早朝の空気は爽やかだった。
畑に行くと、今日街に出る女たちがあちこちに散って、花を摘んでいた。
駒もその中に混ざり、同じように花を摘む。
畑端に颯爽と咲く立葵に、少し救われた気分になる。
売り用ではないのにその花が鮮やかに咲いているのは、誰ともなく世話をしているからだ。
自分の畑のついでに、水をやったり、枯れた葉をむしったり。
そこに立っているのは、見返りを求めない、人の何気ない優しさなのだ。
駒は両手に摘み終わった花を抱えると水場に向かった。
この頃にはすでに日が昇りきっている。早く束にして、街へ出よう。
なんだか落ち着かない。
「おはようさん。ひどい顔色やなぁ」
隣から声を掛けてくる仲間に軽く笑みを返し、手を動かしていると、
その水場に女が飛び込んできた。駆けてきたらしく、息が切れている。
「どないしたの、おかあはん」
白川女を総まとめし、組頭を務めている中年の女性だ。
街に出なくなった白川女は、現役の白川女たちの補佐的役割にまわり、
種植えや祭りなど足並みをそろえなければならない場面で号令を掛ける。
だから何事かと誰もが手をとめて彼女を見た。
「誰もまだ街に出てへんか?今日の売り子はこれで全部か?」
「そうやけど…」
女の様子から、ただ事ではないと察したのだろう。白川女たちの表情が険しくなる。
「今日は街に出たらあかんえ!」
「なんでやの?」
戸惑いが広がった。こんな号令が出るのは初めてだ。
「昨夜な、長州と会津がやりおうたんやって。三条河原は死体だらけの血の海や。
こんなときに売りに出て、なにかとばっちりがあったら大変や。
まだ休んどる連中にも伝えとき。今日は村から出たらあかんえ」
聞いていた女たちから、うわぁという甲高い声があがる。だがその大半は興味から来る歓声に近かった。
「会津やて」
「なんかあるて言うてたもんな。物騒やなぁ」
囁きあう仲間達の声が遠くに聞こえる。
町人にとって紛争は所詮人ごとであり、俗世の移ろいにすぎない。
だが駒は、まるで剣を突きつけられたかのようにその場に立ちすくんでいた。
どくり、と心臓がなる。
(あの看板の文字…)
壬生の八木家の門前に掛けられていた看板の文字は。
(会津藩御預、壬生浪士組)
一人の、優しい男の笑顔が思い出されて、口元を押さえた。
まさか。
手にしていた桔梗の花束が解き放たれて、一斉に下方へ流れていく。
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14.祈り
村の衆たちの制止を振り切り、駒は駆けた。
河原町通りを上っていくと、騒然とした雰囲気が波紋のように流れてきた。思わず立ち止まる。
人垣が出来ている。死骸だ、死骸だと言う言葉が聞こえて、駒はその場に棒立ちになった。
よく見ると土にどす黒い染みが出来ている。あちらにも、こちらにも、自分の足元にも。
駒は悲鳴を飲み込み、足踏みをしながら後ろに下がる。
まるで戦だ、と声がする。
河原町はどこもかしこも死体や肉片やらが転がってさ。みぶろはなんてことをしてくれたんだろう。
京に戦を持ち込みやがった。長州さんがたくさん殺されたって。戦だ、まるで戦だよ。
背後の老婆の声を振り切るように前へ出た。
違う。
歳三とは似ても似つかぬ風体の男だった。
ではあちらの死体は?そこに落ちている腕は歳三のものではないの?
考え出せば止まらない。一呼吸でも息を漏らせば、そのまま腰が抜けて歩けなくなりそうだ。
両手を強く握って、駒は再び足を前に出す。
後に知ったことだが、市内各所で死亡した浪士たちの多くは、六日未明の対討戦で、
各所の潜伏先から脱出後に斬られた者たちだった。
一番の修羅場は池田屋で、隊士たちは戦闘後、列を為して帰陣していき、
明朝起き出した市民たちがそれを見届けた。
しかし人々には何が起こったのか、何故こうなったのか、事実を知る由も無く、
あるのは目の前の無残な死体だけで、出来たのはただみぶろの卑劣さに嘆くことだけだった。
真実を知らずに罵るのは容易い。
道を行く駒にはその非難だけが聞こえ、耳を塞ぎたくなった。
なに?あんたみぶろを追ってるの?みぶろたちは血だらけで、あの道を曲がったよ。
竹胴やら鎖の着込みやら、鉢がねやら陣羽織やら、すごい扮装だったよ。
仰々しくて目だってたから、追いついたらすぐ分かるよ…。
壬生へ帰っているのだ、と駒は途中で気づく。
見慣れた道を辿り、熱に浮かされたように彼らを追う。
息が切れて、全身の血脈がどくどくと鳴った。
早く。早く見つけなければ。でもそれが死体だったら私はどうすればいい?
やがて太陽が真上に昇る頃、のどかな田んぼの畦道に似つかわしくない風景が見えてくる。
屯所の門の前に、聞いた通りの戦支度をした男たちが数人立っていた。
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15. 世界
「なんだお前は」
最初に駒に気づいた男が、怒鳴るような声を上げた。
その場にいた男たちが一斉に駒のほうに視線を向ける。
「女、女だ」
「あの格好、白川女か」
「花売りが何の用だ」
「立ち去れ!」
立て続けに言われ、駒は身を引いた。
「人を…」
出した声はかすれていた。
「なんだ聞こえないぞ」
「人を、探してるんどす」
今度は大きく声が出た。声を出してしまうと震えは止まり、ゆるぎない瞳で駒は男を見据えた。
男は強い駒の態度に戸惑ったようだった。よく見るとまだ顔立ちに幼さが残っている。
少年と言って良いような若侍だった。
「探し人だと?」
「へぇ。トシゾウさんというお人はいてますやろか」
「トシゾウ…そんな隊士がいたか?」
さぁ、と男たちは首を傾げあう。
「苗字は、その隊士の苗字はなんと言うのだ」
駒は無言で頭を振る。歳三の苗字など知らなかった。自分が知っているのはただ、
あの人の名がトシゾウで、この屋敷に出入りしてるということだけだ。
私は、あの人の何を知った気でいたのだろう。悲しみがこみ上げてくる。駒は俯いた。
土に汚れた、白い足袋が悲しい。
唇を噛んで黙ってしまった駒を見て、先ほどの若侍が前に出てきて話しかけてくれた。
「お前、誰やらの身を案じて尋ねてきたのか?」
宥めるような、落ち着いた声音だった。駒は頷く。
「そうか。ならば知っているだろう、我々は昨夜浪士たちに天誅を下した。
それを逆恨みした連中の報復がないとも限らぬゆえ、女といえども面会は許されない。
この地も安全とは言えぬ。早々に立ち去るがお前のためだ」
山野、と咎めるように他の男が呼びかけた。いいじゃないか、と山野は応じる。
駒は再び頷いた。男の言い分はもっともだ。だから、白川女は都への出入りを禁止されたと言うのに。
ただ一度身を重ねた男のために、命をむき出しの刃の前に晒すのか。
身分も、名すらも明かしてはくれぬ男のために。
だが駒は去らなかった。
今歳三に会わなければ、生きているにしても死んでいるにしても、
二度と会えなくなる気がしたからだ。
色々な人がやってきては去っていった。
立派な袴をはいた武士や、坊主頭の男たち、おそらく医者だろう。
出て行ったものもあった。こもを被された遺体。
近くの寺に埋葬されたようだった。
日が暮れてきた。煌煌とした松明の灯りが灯される。
あの人は、死んだのだろうか。
戦など、自分には関係のないものだと思っていた。
上のたつお殿様が変わろうと、自分の生活には何の影響もないと思っていた。
自分の干渉が及ぶものでもないと、投げてすらいた。
でも歳三は違ったのだ。こうして、国や主君のために、血を流している人々もいる。
命を賭して、成し遂げるものに精力を注いでいる者もいるのだ。
あがいてあがいて、大きな流れに干渉しようとしている人々。
やがて二つの影が駒に近づいてきた。
一人は先ほどの若侍だった。そしてもう一人、背の高い男を連れている。
「お嬢さん、トシゾウさんに会わせてあげるよ」
駒の世界が、動こうとしている。
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16. 落ちた星屑
あの人の笑い方を思い出す。
それは本当に控えめだ。
目が少し柔和になって、うっすらと口角が上がる。
取り囲む周りの空気がふっと緩むから、ああ笑ったのだと思うのだ。
油断していれば取り逃がしてしまいそうな、あの人の笑顔。
駒はその笑顔を見るのが、とても好きだった。
あの日、駒が壬生に賭けて行ったあの日、駒を中に案内してくれたのは原田という男だった。
「綺麗な女の人が来てるとかいうしさー。しかもトシゾウを尋ねてきてるとかいうしさー。
びっくりなわけ。あ、俺、原田左之助ね。恋人募集中。なんちって」
大柄なその男性は身振り手振りを加え長い髪を揺らしながら、目の前を歩いていた。
時々振り返るその瞳は、人懐っこい暖かさを帯びていた。
「ごめんな。仰々しくて驚いただろう。とりあえずこの部屋に入って」
渡り廊下を歩く駒に対して、攻撃的な、好奇を含んだ視線がいくつも飛んでくる。
自分の背でその視線からかばう様に、原田が客間の一つに案内してくれた。
「あのままあそこにいるよりは、中のほうが安全だからね。今トシさんを呼んでくるから…」
「ではあの人は」
急に声を出して飛び寄った駒を、原田は目を丸くしてみる。
「あの人は無事で!」
日が落ちきった薄暗い部屋に、灯りが一つ灯っていた。
その灯りに照らされた横顔が、優しく微笑むのが見て取れた。
「トシゾウさんが死ぬわけないじゃん」
噛み締めるような、確認するかのような囁き。
その言葉は逆に、あの人の生死も危ないほどの戦いだったのだ、という切実さを駒に感じさせた。
駒に知る由もないが、その戦いで実際に幾人もの命が失われている。
「閻魔様にだって追い返されるね」
駒はただ頷いた。
ずっと押し殺していた涙が、ようやく堰をきったように流れ出した。
そして、あの人は来なかった。
帰り道、うつむく駒に、何度も原田は陽気に話しかけたけれど、
色んな感情が中で渦巻いて、到底返事が喉を突いて出なかった。
もう、会えないのだ。
これがあの人の答えなのだ。
生きていてくれさえすればいいと一時は思った。
それなのにこの心の荒れようは何だろう、抑えられない感情は。
たった一枚隔てた向こうに、あの人がいたというのに、
会うことも声を聞くことも、触れることも、出来なかった。
自分自身の身勝手さに、自虐的な苦笑が漏れた。
重荷になるまいと、一定の距離を置いて接していたけれど、
トシゾウに踏み込めなかったのはこういう結果になるのを恐れていたからではないか。
踏み込めば、壊れてしまう予感がしていたから。
踏み込まれることを、何より嫌う男だと、本能で察していたから。
なのに最期まで距離を置くことができなかった。駒の所詮ひとりのおなごなのだ。
知りたくなる。自分のものにしたくなる。干渉したくなる。
それは、武人であるあの男にとって余計なものに違いなかった。
砂利を踏む音に混じって、空ろに蝉が鳴いている。
頼りない提灯の先に白川が見えてきて、ようやく駒は顔をあげた。
お礼を言わなければ。この人がいなければ、あの人の生死すら、分からなかった。
「あの」
名前を聞いたはずだけど、どうにも思い出せなくて、駒はそう呼びかけた。
「ほんまに、おおきに。ありがとうございました…」
「うん。えっと、」
原田は気まずそうに視線を泳がす。
「俺のほうこそ礼を言うよ。トシさんを心配してくれてありがとう」
駒は微笑もうと努力した。
「じゃあな」
下駄を響かせて、原田が去っていく。
その背中に、駒が今まで聞きあぐねていたことを、ようやく言葉にした。
本当はずっと知りたかったこと。
「あの、トシゾウという方は何者なんどすか」
男は心底驚いた顔で振り返った。
「あんた知らなかったの?」
そして誇らしげな笑みが広がる。
「会津藩御預壬生浪士組副長の土方歳三のことだよ」
暁の空が降りてくる中で、しばらく駒は動けなかった。
そして――