例えば玄人女を相手にするのならば、
こんなに戸惑わなかっただろうに。
どうすれば傷つけずに愛を伝えることが出来るだろう。
だが、それよりも今は抗えない衝動を抑える術がない。
手を取って額に頬にと口付けを落としていく。
何度も何度も。
体焼けるように熱くなって、奥のほうからどろりと溶けていきそうだった。
ゆるやかな狂気
馬鹿げていると、姉は怒るだろうか。
使用人同士の恋愛沙汰は御法度。
せっかく得た大店の縁をこんなことでふいにしようとしている。
歳三が切れ長の目を向けると、女は怯えたように身を竦ませた。
「・・・怖い?」
そう言いながら両手を挙げて、
嫌がるなら近寄らないし触らないという意思を示して見せる。
「いいえ」
急いで女が口にした。
意思の強い眼差しがまっすぐに歳三を見詰めて、
歳三は触れたいという衝動を抑えられなくなる。
「怖いわけないでしょう?」
挑むような視線に挑発するような口調。
歳三は苦笑して、なるだけ怯えさせないよう、ゆっくり近づいた。
伸ばした手のひらの背で染み一つない白い頬をなぞる。指先に微かな身震い。
「本当にいいのか」
息がかかるほど顔が近い。
答えの代わりに目を閉じた女に、歳三はしっとりと口付けた。
腕と心意気さえあれば、商屋で大きな成功を収めることが出来ると云う。
奉公のあまりの辛さに一度目の奉公先から逃げ出してきた歳三に義兄が言った言葉だ。
お前は頭のいい奴だから、その気になればきっと番頭まで伸し上がれると。
運が良ければ暖簾分けをしてもらって、独立できるかもしれないと。
それに賭けてみないか、と真剣に諭す義兄の顔を見て、
それも悪くないとその時は思ったのだ。
将来の展望もなく、武士になりたいと夢戯言を言っている弟に対して、
兄たちが親身になって危惧していることが分かったからだ。
しかしいざ奉公に出てみると、歳三は再び耐え難い苦痛を感じていることに気づいた。
番頭になるにしても、最初は皆丁稚から始まり、若衆、手代などを経て昇進していくのだ。
そしてその身分制度は整然とされていて、
下の者は上の者に殴られようが蔑まれようが、決して口答えは許されない。
衣食住は保障されているにしても、勿論無給。里帰りすら許されない。
大店であればあるほどその規律は厳しく統制されていた。
仮に周りを蹴散らし、番頭になれたとしても、
それまで何年かかる?最低でも三、四十年だ。
その途方もない時間を思うと、激しい苛立ちを感じた。
そんなことで、一生が終わってしまうなんて、耐えられない。
商屋の仕事になんの価値も見出せないまま、月日が過ぎていった。
「志野」
優しく口付けながら頬を撫でて、そう呼びかけると、
間近の黒い瞳が吸い込まれそうな光を発した。
今度は顔の傾きをずらして、もっと深く口付ける。
舌先で歯列をなぞると誘うように唇が開かれた。
侵入して舌を柔らかく絡め取ると、思わず、と言う風に女の体が引いて、歳三から逃れていきそうになる。
頭の後ろに手のひらを固定して、唇を追いかけて、そのまま体を押し倒した。
逃れる場所がなくなった女に覆いかぶさったまま呼吸を乱れさせる。
このまま一気に制服したい衝動。
しかし体を強張らせている志野の様子が、
歳三の欲望を踏みとどまらせる。
「怖がらないでくれ」
宥めるように何度も頬をなで、髪を撫でた。
傷付けたくないのに、自分を止められない。
どうすれば優しく愛せるかなんて、誰も教えてくれなかった。
「志野」
切ないほどの思いを込めて、その名を呼ぶ。
愛を語るのと同等の重さで、その名を呼ぶ。
するりと帯の紐を解いた。
歳三が奉公に上がったのは、江戸のある呉服屋だった。
呉服屋で扱うのは着物ではなく絹の反物である。
新しい布はそれなりに高価であるため、客層はある程度裕福な人々に限られる。
歳三は普段下働きをしているので店に出ることはないが、
たまに目にする布の豪華さは目を奪われるほどだ。
幕府の奢侈禁止令が何度も出ても、江戸の女は諦めない。
見える表がだめなら裏で勝負と、
羽裏や襦袢、ふんどしなどに鮮やかな色柄を施すのだ。
「世の中にはこんなに綺麗な生地がたくさんあるのに、
あたしみたいな女は一度も袖を通すことなんてないんだわ」
店じまいをした後の片付けの時、志野はそう言って、
こっそりと自分の体に布を合わせて見せた。
確かに今日同じ生地を買っていった野暮な奥方より、
志野のほうがよっぽど似合っていると歳三も思った。
「例えばこの店の反物を全部買い取るとする」
「ええ?」
何を突拍子もないことを、と志野は呆れ顔だ。
「それで、片っ端から着物に仕立てるんだ。全部お前のものだ」
「夢物語だわ」
二人並んで井戸端にしゃがみこんでいた。
洗濯をする振りをしながら、密やかに会話を交わす。
「そうかな」
「そうよ」
樽の冷たい水に手を浸す。
「あんたもあたしも、自分の口を養うために、
一生働き尽くめなんだわ。それも体が動くうちはいいけど、
もし病気や怪我でもしたらどうなるか…」
「大物になってやるさ」
「どうやって?」
今度こそ本当に呆れた様子で志野は笑う。
「それを考え中なんだ」
何かを為したい気持ちはあるのに、何を為せばいいのか分からない。
違う、ここが俺の場所じゃないという確信はある。
それなのに今は一体何をしている?
どうしようもない苛立ちが内心を支配する。
結局、俺は何もかもが中途半端なのだろうか。
大きな舞台の真ん中に出て行くことは不可能なのだろうか。
時代は動こうとしているのに、
何も為せずにこの場所でぼんやりとしていればいいのだろうか。
やっぱり夢物語だ、と志野がため息をついた。
歳三は反論することが出来ない。
狭い布団部屋に熱気が篭っていた。
脱力したままゆっくりと志野の上に倒れこむと、
志野が両腕で頭を包むこむ。
二人の肌が触れ合う感触で、初めて自分たちが汗をかいていることに気づいた。
人の肌はなんて安らかな感情を与えるのだろう。
上下する志野の胸から聞こえる鼓動が、段々と穏やかになっていく様子に歳三は耳を傾けていた。
このまま眠ってしまいたい。
「・・・いいじゃない」
「ん?」
意識を手放しかけていた歳三は志野の声に我に変える。
「こないだの話の続き」
「いつのことだ?」
悪戯っぽく笑う志野の表情を見上げても、
歳三は何のことを言われているのか見当がつかない。
「大物になるって話よ」
「・・・ああ」
突然現実に引き戻されたようで、歳三は不機嫌になる。
「型にはまっている必要がどうしてあるの?
あんたは剣術が好き。商人が嫌い。ここは合わない。簡単なことよ」
「簡単か?」
「簡単よ」
あっけらかんとした志野の表情。
「なにびびってんのよ」
ばしっと背中を叩かれる。
「・・・ってぇ」
「女中に手ぇ出したからには覚悟は決めてるんでしょう?
やっちゃいなさいよ。自慢できるのは顔だけじゃないでしょ。
あたし、あんたのお荷物になりたくないもの」
歳三は驚いてパチパチと瞬きを繰り返す。
以前の奉公先のように飛び出して日野に帰ろうとしないのは、
志野がいるからだと一言でも言ったことがあっただろうか。
真っ当な商いの道に就き、人並みに所帯を持とうと思ったから、
馬鹿みたいに夢を追いかけるのは諦めたんだなんて口にしたこともないのに。
歳三はくつくつと声を押し殺して笑い出した。
「好きだぜぇ、志野」
ちゃんと、茶化しているように聞こえただろうか。
そんな言葉を口にしたのは初めてで、歳三は照れ隠しに答えを待たずに志野に口付ける。
「んんっ!」
目を見開いた志野が拳でドンっと歳三の胸板を叩いた。
構わずに息継ぎする間も与えず、歳三は舌を絡ませ続ける。
日野へ帰ろう、と歳三は思う。
今度は逃げ帰ったりせず、きちんと暇を出してもらうのだ。
そして豪奢な着物を仕立てる側に回ってやるのだ。
欲望は尽きず、夜は永遠に続くような気がした。
これは狂気だ。
熱病にかかったが如く、体が熱い。
志野の肢体を抱きしめる。
肌にぬくもりを感じている限り、先は果てしなく見渡せるような気がしていた。