その人は視線を合わせながら嘘を言った。
でもそれはあまりにも感じの良い嘘のつき方だったので、
私は騙された振りをして微笑んで見せた。
優しい嘘の吐き方
男の手が素肌の上を滑っていく。
高まっていく熱に思考はとうに奪われた。
何も分からなくなる。
どこにいるのか、どこまでが自分なのか。
分かっているのは、ここにいるのは二人のはずなのに、
まるで一つの体みたいに一つの感覚を共有しているということだ。
男の動きが早まった。
「ん……ああっ」
堪らずに男にしがみついた。
浮き上がった頭をゆるりと包んだのは男の手のひらだ。
男は一言も洩らさない。
そのことが更に私の熱情を煽っていく。
顔は見えない。ただ耳元で苦しそうな息遣いが聞こえて、私を切なくする。
「……っ」
男の背中に爪を立てたのは確信犯だ。
今夜のことを男が忘れぬよう、水を浴びるたびにその傷を意識するよう。
自分のものだというその印は、同時に私の浅ましさを象徴していた。
本当に私のものなら、こんな印はいらないはずなのに。
「…愛している」
最後の瞬間、男はそう囁く。
でもそれが嘘だと私は分かっている。
いや、この瞬間の男の気持ちとしては嘘ではないのかもしれない。
でも戸口に立って背を向けた途端忘れてしまうような愛情は、所詮愛ではない。
だから私は男の首筋に噛み付くことで、自らの言葉を封じるのだ。
私も愛している、なんて、死んでも言わないように。
「戻りたいと思う時があるの」
「…どこに?」
土方は背中を向けたまま着物を着ている。
その美しい肢体が隠れてしまって私は密かに残念に思った。
「私自身の場所に」
土方は帯を締めている。やがてひっそりと聞いてきた。
「それはどこ?」
「分からないけれど」
そういえば灯りを消すのを忘れていた。
灯りによって作り出された土方の影絵が不思議な模様で揺れている。
「ここじゃない場所」
土方は振り返った。
「生まれた故郷ではないのか」
私は微笑む。
「もう家はないもの」
向けられた静かな双眸。その瞳に自分はどう写っているのだろう。
売られてきた哀れな遊女?京言葉も使えない田舎者?
それとも一時だけ共に現実に背を向ける共犯者?
「ないの」
ゆっくりと土方が近づいてきた。
私は顔を上げる。
屈んでくる気配があったので、目を閉じた。
柔らかい唇が落ちてきた。
少年のするような触れるだけの淡い口付け。
閨の中で人に言えないような凄まじいことをしたばかりなのに、
どうしてこんな優しい口付けが出来るのだろう。
私はなんだか悲しくなって、離れかけた唇を追って更に深い口付けを要求する。
「んん……」
口付けによって、戻っていた平穏が乱されていく。
侵入した舌が咥内をゆっくりとなぞってきた。
土方が私の腰を抱いて体が思いがけず密着する。熱が立ち上がってくるのが見えそうだ。
やがて唇が離れた。
お互いの頬に手を置いたまま、二人は呼吸が落ち着くのを待った。
どちらも離れようとはしなかった。
「あなたも戻りたいんじゃないの?」
その言葉は悲しげに響いた。土方の表情は動かない。
「あなた自身の場所に」
僅かな沈黙。
「…分からない」
困惑した顔を手のひらで包み込んで、もう一度口付けをした。
もう何も言わなくていいと、男を安心させたかった。
「お前を身請けする」
帰り際、土方がそう宣言した。
「それは嘘?」
「嘘ではない」
心外だといわんばかりに土方は眉をひそめる。
それが嘘だとしても私は許せる気がした。
廓の嘘は嫌いだ。
まるで太陽が昇ると見えなくなってしまう微かな床の灯りのよう。
確かに灯りであったはずなのに、見えなくなった途端それは嘘になってしまう。
真実との曖昧な境界線。
でも今はその嘘が哀しく愛しい。
例え帰り道を辿っている途中で太陽にかき消されてしまうとしても、
私のためにその優しい嘘を吐いた男が愛しかった。
「待ってる」
「また来る」
それもたぶん嘘。
私は微笑んで男を見送る。
後に新撰組が伏見で惨敗したと瓦版で知った。
彼がどこに行ったのか私は知らないけれど、
彼自身の場所に辿り着けたのならそれで良いと、私は思う。