いつもの朝が来て、いつものように目が覚める。
繰り返していく日常で、あなたのいる空間だけが特別に浮かび上がる。
透明な軌跡が故
まただ。
髪を直そうと鏡台を覗き込んだ明里は自分の首元に目を留めて、ため息をついた。
そっとその痕を指でなぞる。
白い首筋にくっきりと赤い花が咲いていた。
犯人は明らかだったが、その人物は閨で健やかな寝息を立てている。
唇で吸った痕は、白粉を厚く塗れば消える。
しかし勿論完全に消えるわけではないし、
他の客の目に留まれば不機嫌にさせることもある。
いくら相手が遊女といっても、これから抱こうという妓に他の男の痕が付いていたら、
あまり良い気分はしないのが人情だろう。
それを知っていて、この人は時々こういう意地悪をするのだ。
優しい微笑を浮かべたまま、さり気なく、意地悪を。
廓の一日はまだ始まらない。
明けきらない空は薄い紺の闇を残していて、
冷ややかな冬の夜気が締め切った戸から忍び込んでいた。
肩に掛けたままだった着物をずるずると引き摺って側に寄り、
かの人の顔を覗き込む。
「…山南はん」
小さく呼んでみたが、珍しく眠りが深いようだ。
長い睫が翳りを落としている。
目を開けていればいつも完璧な笑顔を崩すことのない山南だが、
眠る姿は思いのほか無防備で女心を刺激する。
通った鼻梁。薄い唇はわずかに緩められ、かすかに上下する胸。
飽きずに何時間でも寝顔を眺めていられそうだった。
「私の顔に穴を開けるつもり?」
眠っていると思い込んでいた山南が唐突に口を開いて、
明里は声を上げそうになる。
その様子を薄目を開いて見た山南は唇の端で笑った。
「いややわ。心の臓が止まるかと思た」
胸を押さえて明里はまだ目を丸くしている。
「起きてはるなんて」
「御免。余りに熱っぽい視線を送るから、目を開け辛くなったんだ」
「…いけず」
思わず恨みがましい声になる。上半身を起こした山南が手を伸ばした。
誘われるままその腕の中に納まると、山南は幸福そうに髪に触れてくる。
彼の匂いと体温に包まれて、眩暈がしそうだ。
天神になるまで物の例えではなく星の数ほどの男に抱かれた。
それなのに、今更腕に抱かれただけで何故こんな気持ちになるのだろう。
眩暈がする。嬉しくて切なくて、何故だか悲しくて。
「そんな格好では風邪をひくよ」
近くの打掛を引き寄せて、羽織らせてくれる。
「山南はんが脱がしはったんえ」
「責任を取れと?」
「取っておくれやす」
山南はただ笑う。
廓の戯言と思っているのだろうか。
事実その通りで、今までこの類の睦言を繰り返してきたというのに、
戯言でも頷いてくれたかった山南に少し泣きたい気分になる。
「こっちの責任も」
そう言って襟をずらして首筋を見せる。
山南の視線がその赤い痕に止まって、目が細められた。
「あかんて言うたのに」
「すまない。夢中になって忘れてたんだ」
「嘘。わざとやろ」
「まさか」
そう傾げられた顔は完璧に申し訳なさそうに見えたが、
口調に微かに面白がる色が出ている。ああ、絶対にわざとだ。
見かけが誠実そうなだけに、たちが悪い。
「では責任を取るとして、どうすれば君の気がすむ?」
「…そうやなぁ」
明里は瞬きをする。
「じゃあ山南はんが」
「私が」
「そこの窓から京都中に聞こえる声で”愛してるよ明里〜!”って叫びはる」
山南は笑顔のまま固まった。
「……………」
「……………」
「…それはとても面白そうだけど」
先に我慢できなくなったのは山南だ。
「せやろ」
動揺している、と思うと可笑しかったが、明里は笑いを堪える。
「他のものにしてもらえると有難い」
「あかんの」
「駄目」
きっぱりと言った山南に、明里は最初から考えていた提案をする。
「じゃあ、なんにもいらへん。責任とる必要なんかあらしまへん」
山南は一瞬戸惑う表情を浮かべて、怪訝な様子で言う。
「そんなに叫んで欲しかったのか?」
と、見当違いなことを。
明里は苦笑しないように笑って、そうじゃないんだと首を振った。
そして口付けをねだった。
山南は少し首をかしげて、その願いをかなえてくれる。
本当に欲しいものに限って手に入らないのは何故なんだろう。
頭の後ろに伸ばされた手のひらが引き寄せられて、ゆっくりと暖かい唇が触れた。
実は山南は誰にも心許していないのではないかと明里は思う。
柔和で優しげで聡明で。
誰にでも笑顔を向けることは、誰にも笑顔を向けていないのと同義ではないだろうか。
「うち、山南はんが好き」
唇を離した明里は、わざとあどけなく言った。
山南は表情を動かさない。
「好き」
首筋に腕をまわす。
肩に顔を埋めたのは歪みそうになる顔を見られたくなかったからだ。
たった一言の単語を言うだけで胸が締め付けられて苦しい。
「…知ってる」
やがて返ってきたのはそんな残酷な言葉で。
泣いてしまわないように下腹に力を込めた。
「それじゃあ」
島原の大門で振り返った山南に微笑を返す。
朝の喧騒。冷たい空気。
待っている時間は長いのに、逢瀬の時間はこんなにも呆気なく過ぎてしまう。
「風邪などひかぬようにね」
まるでこれが最後みたい。又来るよくらいの嘘を言えばいいのに。
さよならを言えない子供のように、明里はただ突っ立っている。
そんな様子の明里に慣れている山南は、もう振り返ることのなくまっすぐ歩いていくのだ。
いつか同僚が言っていた。想い人が出来てから、毎日がめまぐるしいものになったと。
喜びはさらに大きい喜びに変化し、哀しみもまた然りと。
確かにめまぐるしい。この身がつぶれてしまいそうなほどに。
明里は空を見上げて大きく深呼吸をした。
首筋の、山南が残した印にそっと触れる。
数日は消えることのないそれは、わずかに熱を持っているような錯覚がした。