12.楽


「惣次郎!そっちに行ったぞ!」
初夏の日差しを跳ね返す川のきらめきの向こうから、嬉々とした勝太の声がかかった。
「はい!」
惣次郎は元気良く返事をして、足元を覗き込む。
梅雨が明けて間もない季節、まだ川の水は冷たい。
体温を奪っていく水流に耐えつつ足を踏ん張っていると、
きらきらと目に眩しい川面を身をひねらせて向かってくる魚が見えた。


えい、と惣次郎は両手を突き出す。
捕まえた、と思ったのは一瞬。
あ、と声を出す暇もなく、幼い指の間からするりと魚は逃れて行って、
惣次郎は慌てて指先で追いかける。
仁王立ちになった惣次郎の両足の間を魚は捕まってたまるもんかと泳いでいき、
それをさらに追いかけた惣次郎は自然と股くぐりをする格好になって。


あれ?と思ったときにはすでに世界は反転していた。
「あーあ、何やってんだよバーカ」
ぱちくりと見開いた惣次郎の目に映ったのは、
抜けるような青空と仏頂面の歳三。


水音がやけに近いと思ったら、すぐ耳元に水が流れていた。
いや、頭から爪先まで水に浸かっていた。
手をついて起き上がると、髪から滴となって水が滴った。
「冷たい」
「当たり前だろ、バカ」
そう言いながらも歳三は立ち上がるのに手を貸してくれる。
着物どころか下帯まで水浸しだった。
「わーびしょびしょ」
袂を絞って、盛大に水を落とす。
「で?魚は?」
「え?」
見上げると歳三は意地悪く笑っている。
「ひっくり返ってまで追いかけたからには、捕まえたんだろう?魚」
惣次郎を見れば逃したのは一目瞭然なのに、からかってかかっているのだ。
惣次郎は考える振りをする。
「あのね」
「おう」


そしていきなり歳三に飛びついた。
「おわっ?!」
濡れ鼠の惣次郎を避けようとした歳三は一歩下がった足をつるりと滑らせる。
思わず尻餅をついた歳三に更に総司が覆いかぶさった。
びちゃ!
「てんめー…」
首筋にがっちりしがみついた惣次郎を、憎憎しげに睨み付ける歳三が可笑しくて、
くすくす笑いながら惣次郎は抱きつく腕に力を込めた。
「はなれろっ。このヤロ」
「いやだよーだ」
暴れる二人の周辺で水滴がばしゃばしゃと飛ぶ。


水を掻き分けて足音が近づいてきた。
「何を遊んでいるんだ、お前たちは」
呆れたような、大らかな声。
「先生ぇ」
歳三にしがみついたまま。首だけをめぐらせて惣次郎は勝太を見た。
「転んだのか、惣次郎」
「うん」
笑いながら言われて、惣次郎は嬉しくなる。
「かっちゃん!こいつをはがしてくれよ、ったくよー」
後ろから抱き上げられたので、素直に惣次郎は腕を放した。
「くっそー。俺までずぶ濡れじゃねぇか」
ぶちぶち言いながら歳三は立ち上がる。
「やっぱり網を使わないと駄目だな」
「このチビ助にやらせるからだって」
「まぁまぁ、良い水浴びになったじゃないか」
「水浴びにはまだ早いってば」
言い合いながら、大人二人は歩いていく。
惣次郎はまだ足元を見つめていた。もう魚はいない。
人間が大騒ぎしたから、驚いて逃げてしまったのかもしれない。


「惣次郎!行くぞー」
「はーい」
勝太の呼ぶ声につられて、顔を上げる。
陽光をまとった二人はまるで自身から光を発しているように見えて、惣次郎は目を細めた。
なんてことはない。水面に光が反射しているだけなのだ。そうなのだけれど…。
「いま行きますっ」
そう言いながら走り出す。
惣次郎にとってはきらきらと眩しい、その光の中へ向かって。