第六話「夜の目」
つい先日まで眠れないほどの暑さだったのが嘘の様だ。
縁側で着流しからすらりと伸びた足をさらけ出し、
湯上りの宗次郎は夜気に涼んでいた。
庭のどこからか虫の鳴き声。
「ねぇ」
声を上げた宗次郎をすわ何事かと見たのは試衛館に来たばかりの山南だ。
「さっきから何を見ているんですか」
「庭を」
だらしのない格好で足を投げ出している宗次郎とは対照的に、
山南は姿勢を崩さず正座をして庭を眺めている。
その口元に年若い者を慈しむような微笑が浮かんだ。
「こんなに暗いのに何が見えるの?」
今夜の弦月は心許ない灯り。
「草の影が揺れるのが」
総司は暗がりに目を凝らす。微かに何かが揺れている気もするが。
「よく見えないけど」
「なまじ灯りがあるといけない」
山南は足元の行灯を引き寄せ、音もなく消した。
闇が一層濃くなる。心なしか虫の鳴き声が大きくなったよう。
「夜目が利くほうが…得だよ」
剣術において。戦闘において。
わずかな沈黙にはそんな言葉が入る気がした。
こんなに静かで争いごととは無縁に見える人なのに、
思いのほか実践的な考え方をする。
まだ剣術を稽古としかとらえることが出来ないでいる宗次郎は、
夜に剣を持って誰かと対峙するなんて考えたこともなかった。
「得した経験があるんですか」
山南は答えなかった。
暗闇の中で、何故だか彼が微笑んでいるという確信があった。
04/9/19
第七話「気になる人」
「山南?」
「うん」
井戸端で歯を磨いている歳三は問われて縁側に立つ宗次郎を仰ぎ見た。
「仙台脱藩で千葉道場から来たとか言ってたか」
「他には?」
「さぁな。俺ぁ知らねぇよ。たぶんかっちゃんも詳しいことは知らねぇんじゃねぇの」
「素性も聞かないで試衛館に入れちゃったの?」
呆れた宗次郎に歳三は笑う。
「かっちゃんはそういう人だってこと、お前も知ってんだろ。
奴の人柄に惚れちまったんだとさ」
「ふーん」
宗次郎は近くにあった下駄を履き、乾いた足音を響かせながら歳三に近づいた。
「不満げだな、おい」
歳三は最後にうがいをすると、手拭で口元を拭う。
「別に」
宗次郎は元来人見知りするたちではないのだが、
どうも山南には警戒心を抱いてしまう。
今まで周りに居なかったタイプの人間だからかもしれない。
どう扱っていいのか分からないのだ。
歳三はにやりと嫌な笑みを浮かべると、手拭を肩に掛けくるりと背中を向けた。
「へいへい。僕だけの先生だもんな」
むっとした宗次郎は歳三に後ろから追いついて、膝カックンをしてやった。
「そんなんじゃないもん!」
「っ!てんめぇ」
歳三が振り返る前に、宗次郎はダッシュで逃げ出した。
04/9/22
第八話「勝敗の優劣」
生まれて初めての喧嘩はぼろぼろに負けた。
「てて無し子が奉公人の真似してやがる」
近所の、わりと良い身なりをしている子供だった。
どこかの武家の子だったのかもしれない。
宗次郎は無性に腹が立って、がむしゃらに殴りかかっていったのだが、
多勢に無勢。逆に散々殴られた。
顔を紫色にはれ上がらせ、傷だらけになって帰って来た宗次郎を見た勇は笑って、
「今度喧嘩の仕方を教えてやるよ」
と言っただけだったが、土方は違った。
真剣な顔でこう言った。
「チビ、勝てねぇ喧嘩はするな」
宗次郎はその頃12歳。
「頭を使え。近くにある物を使え。地の利を使え。
それは卑怯なことじゃねぇんだ。勝ったほうが偉いんだ。
そして、いいか、駄目だと思ったら退け。退き際を見極めることも大事なんだ」
常に理想を目指す近藤と現実的にものを考える土方。
土方はいつから考えを翻したのだろう。
それとも、もしかしたら土方は近藤のようになりたかったのだろうか。
眩しいほどに真っ直ぐに、愚かしくもひたむきに。
近藤と土方を筆頭に今私たちは終焉を目指して走り続けている。
例え負けても罵られても、愛しい人を置き去りにしても。
勝った方が、偉いのだとしても。
10/6
第九話「猫に関する難題」
どうも、避けられている気がする。
山南は与えられた自室で考え込んでいた。
すっかり季節は秋めいて、湯のみを包む手のひらが柔らかに温かい。
最初はそうでもなかったのだ。
通いから徐々に移り住んだ山南を、むしろ好意的に、
少年らしい好奇心に満ちて迎えてくれたのだが。
何ゆえこのような事態に。
そんなに嫌われることをした覚えは、・・・たぶんない。
同じ屋根の下で暮らしているのだから、
これからのためにもどうにかならないだろうか。
「宗次郎くん」
丁度渦中の人物が部屋の前を通ったので、
とりあえず声を掛けて見た。
ぎくりとして立ち止まった少年は誠に正直に「しまった」という表情を一瞬浮かべ、
それでも礼儀正しく、「はい、何ですか」と返事をした。。
山南は友好的な笑顔を満面に押し出して、
「お茶でも飲んでいかないか」
「あいにく稽古に行くところなんです」
にこにこにこ。
「今稽古場はお弟子さんたちが使用しているよ」
「え?ええっと」
泳ぐ視線。彼の表情は小動物並みにくるくる変わるので面白い。
歳三くんがからかいたがるのもよく分かる。
「丁度ね、ここに面白い書物があるのだけれ…」
「あっ!お腹!」
「え?」
「お腹痛い!!」
宗次郎の興味を引こうと言いかけた言葉をさえぎって、
脱兎の如く少年は駆け出した。あっという間に後姿が消える。
「・・・・・・」
山南は伸ばしたまま行き場所がなくなった腕を下ろして、
ゆっくりと顎を撫でた。
「そんなにイヤか・・・」
なんだか、これではまるで、
(猫を相手にしているようだ)
一人、思わず笑ってしまった。
10/16
第十話「呼ぶ声」
宗次郎、と呼ぶ声がする。
慈しむように噛み締めるように、一音一音丁寧に発音する独特の囁き。
名を呼んでくれた母はもう目を醒まさない。
その優しい瞳に私を映すこともない。
(こんなに小さい人だっただろうか)
棺に収まった母の姿勢が苦しそうで、宗次郎は顔をしかめる。
早く生まれ変わるようにという願いが込められた胎児の体勢。
死に化粧をした母の横顔は美しかった。
「・・・・・・っ」
手にしていた白い菊がばらばらと足元に落ちて、
前を歩いていた近藤たちが何事かと振り返る。
知らせを受けてずっと堪えていたものが堰を切ったように溢れ出した。
顔を覆うことも忘れて、ほとばしる激情に声を上げる。
悲しみを吐き出すように泣いているのに、
涙を流しても流しても、悲しみは体から去っていってはくれなくて。
肩に誰かの暖かい手のひらが置かれる。
後ろから抱きしめられて、前からも腕に抱かれて。
宗次郎は多くの腕にしがみ付く。
母の声がする。
慈しむように慰めるように、
宗次郎、
と呼ぶ声がする。
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