母は平助が14の時に死んだ。
笑顔がぱっと顔に咲くような、可愛らしい人だった。
父は藤堂藩主だと教えられたが、本当のところはよく分からない。
ただ母を見ていると、父は彼女の少女のように無邪気なところに惚れたのかな、と思った。
感情に素直に笑い、怒るその様子が藩主という立場で多くの思惑の渦中にいる父の心を和ませたのだろうか。
そう考える時、一生会うこともないであろう父が身近にも感じられるのだった。
刹那の記憶の行方
ある昼下がり、試衛館は暖かな木漏れ日に包まれている。
その一室でうとうとと昼寝をしていると、
聞くともなしに皆の会話が耳に入ってきた。
「つねさーん、俺の煙管知らねぇ?」
ああ、原田さんだ、と平助は思う。
実は失敬したのは平助だ。枕元の煙草盆に派手な朱色の煙管が乗っている。
「知りませんよぉ。…あっ」
ガタン、と派手な音。
「やだぁ。こぼしちまった。総司さん、戸棚の味噌を取って欲しいんだけど」
「はいはい。今夜はきっとトシさんも来ると思うよ、ほら薬を売り歩く日だし」
「じゃあ、夕飯多めに作らなきゃなりませんね」
遠くから猫の鳴き声のようなものが聞こえる。そして勇の声。
「おーい、瓊子が泣いてるぞ」
「あ、はーい」
もう起きているつもりなのだが、
体はまだ睡眠を欲しているのか動かない。
意識だけが沈むように夢の中へと入っていく。
「お前さんたち、平助が寝ているから静かにな」
永倉が何気なく言った一言に胸が詰まる想いがした。
「私はただの町人だけど、お前は違いますよ、なんたって武士の子なんだから」
母の声がする。
細かい小紋の柄の着物をよく好んで着ていて、近づくとふんわりと良い匂いがした。
「ねぇ平助、誰が何と言おうと、自分は武士の子だってこと、忘れちゃいけませんよ。
母さんが保障する、お前はあの方の子供なんだから。
だから人様に大声で言えないような生き方はするんじゃないよ。
どんな道でも良い。往生する時に、さぁ俺は生きてやったぞ、
閻魔もどんとこいって威張れるように生きていきなよ」
母は料理屋で雇われて働いていた。
給料はそう多かったと思えないが、母はよくこう言って笑った。
「なぁに、元気な体があれば大きな江戸の町で親子二人、
食べていける仕事なんて幾らでもあるさ」
しかし毎月、ある程度の金子がどこからともなく与えられていたことを、平助は知っていた。
そうでなければ通りに面した日当たりの良いこの長屋に、
平助を寺子屋と道場に通わせながら女一人の稼ぎで住めるわけがなかった。
どこから送られてきたものなのかは、結局分からない。
母が死んだと同時に送金も途絶えた。
どちらにせよ、それがお前とはもう関わらないという、
父の答えであるように平助は思った。
「平助、俺の所に弟子に入る気はねぇか」
そう言ったのは、浮世絵師の松次郎だ。
日雇いの仕事でその日暮らしをしていた平助には魅力的な申し出だった。
「お前は手先が器用だからよ、きっと良い絵師になるよ」
浮世絵は完全な分業制で成り立っていて、
歌麿のような絵師が書いた下絵に沿って版木を彫り、
それに色を入れ、刷るという作業はそれぞれの職人によってなされていた。
そこは色付けの工房で平助はたびたび手伝いに赴いていたところだった。
淡い色から濃い色へ。
順に色を重ねていき、絵が出来上がっていく様子は、まるで命が芽吹くかのようだ。
だがすぐに色よい返事が出来なかった。
この誘いを受ければ、平助は完全に町人になる。
その事実が平助を躊躇させていた。
今だって武士なわけじゃないが、
道場通いは続けていて剣術の腕はちょっとしたものになっていた。
”威張れるように生きていきなよ”
母の声が蘇る。
母が死んでから平助は裏通りの安く小さな長屋に移っていた。
九尺二間の小さな部屋である。
部屋には小さな台所がついていて、雪隠や水道は共同。
一人で住むにはそれで充分だ。
あるのは一つっきりの箱膳と布団、行灯に衣服を入れる柳行李。
家財度尾具は少なく、殺風景な部屋。
ちゃんとした自分の住処だったはずなのに、
何故だか形だけの他人の部屋のような違和感がずっとしていた。
どうしてなのか、平助には分からない。
ただ自分の居場所はここじゃない、そんな囁きが体に満ちていた。
猛暑になりそうな予感を孕んだ、18の初夏だった。
平助は丁寧に誘いを断った。
どう生きるかまだ分からない。
だがこの身一つで何が出来るか、試してみたかった。
その後平助は北辰一刀流の道場で山南に出会い、
彼に紹介されて試衛館の扉を叩くことになる。
目を醒ますと、もうすっかり夕方だった。
居間のほうから、賑やかな声が聞こえてくる。
長く眠っていたせいか、頭の芯が痺れて上手く思考が働かなかった。
その場で座り込んだままぼんやりとしていると、
ばたばたという足音と共に左之助の顔がひょっこり覗いた。
「わっ。起きてたのかよお前。よく寝てたな」
部屋の中に視線を走らせて、平助が失敬した煙管に目を留め、あーっと怒鳴る。
「探してたんだぜ、これ。平助が使ってたのかよーくそー」
そういえば、初めて試衛館に来た時、
最初に会ったのは左之助だった。
住人が留守にしている屋敷の留守番係だったこの男は、
縁側で堂々と昼寝をし、揺り起こした平助に向かって不機嫌そうに「帰れ帰れ」と言ったのだ。
「な、なんだよ」
言葉に反応もせず、一人思い出し笑いをしている平助を、
気味悪そうに左之助は見る。
「ううん。なんでも」
笑いを堪えながら、
「原田さん」
「ん?」
「俺、ここに来て良かった。皆に会えて良かった」
「はぁ?」
間の抜けた左之助の顔に堪えきれず、とうとう平助は吹き出す。
「気持ち悪いなぁ。熱でもあるんじゃねぇの?」
「ないってば!」
きっと、ここが探していた答えだったのだ、と平助は思う。
絵師に誘われた時、そのまま頷いてしまえば、
今頃は安穏と穏やかな生活を手に入れれただろう。
だが、もう少し自分の行きたい道を模索してみたいと、平助は思ったのだ。
遠回りしても、人から遅れたって、構わない。
道は一つではなく、結局はその道々でどう生きるかなのだ。
選び損ねたらやり直せばいい。後悔だけはしたくない。
「大好きだよ、皆」
平助は思ったことを口にする。母のように。
すると左之助はうろたえた。
「お、お前清らかな笑顔で言うんじゃねぇよ。誤解されるだろ」
ますます平助は笑い転げる。
「馬鹿言ってねぇで、夕飯だぞ。今日はお前の好きな秋刀魚だぞ」
「うん。今行く」
平助は立ち上がりながら、目じりに浮かんだ涙をそっと拭った。
言われて気づいた空腹の体と、左之助の背中の向こうに待つ皆の笑顔が愛しかった。