06、切


風の音がしている。

は暗闇の中、目を開いた。
眠れない。
目を開いても瞑っても、映ったのは変わらぬ漆黒。
ゆっくりと身を起こして息をつく。
そのままじっとしていると、家具の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。


妙に広く感じる我が家。
いや、我が家と言えるのだろうか。
かりそめの、ままごとのような新居。
まだ家具も少なく閑散としている。
休息所、というらしい。
駆け落ち同然で、親を捨て友人を捨て、
人目を憚るように移り住んでからまだ一週間もたたない。
いや…実際には押しかけ女房なのだ。
無口な人なのをいいことに、なし崩しに事を運んできてしまった。
それでも彼といられればそれで良かった。


風は鳴り止まない。
雨が来るのかもしれない。


吹き付ける風は戸をがたがたと揺らし、心許ない気分になってくる。
今夜は斉藤は帰って来ていない。
おそらく屯所のほうに泊まるのだと思う。
初めてではない。彼がやってくるのは今のところ二日に一回ほどだ。


でもこうして夜一人でいると、胸を闇が蝕むように不安になってくる。
本当に、屯所にいるのだろうか。
もしかしたら今この瞬間に彼は敵に囲まれているのかもしれない。
彼はかなり腕が立つほうだとは聞いたことがあるけれども、今は何の慰めにもならなかった。
暗闇で剣を振るうことができるのだろうか。
真綿で首を絞めるように染み込んでくる不安感。
白刃が彼の肌を傷つけて、赤く血溜まりが出来る様子が
鮮やかに目の前に浮かんで、鈴は手で口元を覆った。
その指先が微かに震えている。


急いで枕もとの行灯を引き寄せ、手探りで燈芯に火を点けた。
滲み出るようなその明るさにはほっとする。
なんてことない。風の音で気が立っただけだ。
何の根拠もない想像なのだ。
大丈夫。大丈夫。
そう言い聞かせながら半ば無意識に手ぐしで髪を整えた。
それは自分を落ち着かせる作業に似ている。
朝になってから結い上げるつもりの洗いざらしの髪がさらさらと頬に落ちてくる。


その行灯は赤い漆塗りの優雅な細工で、
移り住んできた最初の日に斉藤が買って来たものだった。
どこか女らしい情緒のあるその行灯を斉藤がどんな顔で買い求めたのかと思うと、自然口元が緩んだ。
その灯りを見ているうちに、波だっていた気持ちも治まってきた。
は息をつく。


斉藤がいない夜は特に気をつけて戸締りをするよう言われていた。
不逞浪士がこの家を襲わないとも限らないからだ。
恨みなら売るほど買っている、と自嘲気味に笑う斉藤の顔が浮かんだ。
もう一度見回っておこうと思い、は立ち上がった。


戸を一箇所ずつ見て廻る。
どこも異常はないようだ。
最後に玄関まで来た時、その戸に人の影が映ってはヒッと息を呑んだ。
「だ、だれ」
捻り出した声が情けないほど震えている。
「…
そう呼んだのは斉藤の声だった。
一瞬ぽかんとしたは慌ててしんばり棒を外し戸を開けた。
困惑した顔で斉藤が所在無さげに立っている。
「…おかえりなさい」
唖然とした顔のままぽろりと口から出た台詞に、彼は苦笑した。


眠っているのかと思った、と彼は言った。
家の前に来ると灯りがついていて、
声を掛けようか迷っているところにが玄関まで来たらしい。
「随分夜更かしをする…」
着替えを手伝っていると、背を向けた斉藤が呟いた。
「眠れなかったの」
着物を掛けて戻ってくると、斉藤は布団の上で胡坐をかいていた。
随分現金な、と自分でも思ったけれども、
斉藤が戻ってきたことで先ほどの気分など吹っ飛んでしまった。
風の音ももう気にならない。


「こんなに遅いことは初めて。何かあった?」
「いや…」
歯切れ悪く、斉藤は黙り込んでしまう。
そしておや、という風に改めてを見た。
「髪を」
解いた髪に視線が注がれた。今頃気づいたのか、とは可笑しくなる。
「今夜はお帰りにならないと思ったから…」
そうか、と納得して斉藤は手を伸ばした。
ゆっくりと指先で梳くその仕草が驚くほど優しくて、は目を閉じた。
「良いな」
「え?」
「流した髪も、良いな」
抑揚のない台詞には笑う。
「おおきに」
慣れない京ことばで返すと、斉藤が微かに笑った気がした。
行灯の灯かりが、揺れただけかもしれないけれど。


「風が…」
斉藤がぽつりと言う。
二人、夜具に包まれていた。
が斉藤の布団に滑り込んだのだけれど、斉藤は何も言わず場所を開けてくれた。
「風が吹いていたから、気になって」
「だから夜中に帰ってきたの?」
呆れては聞き返したけれども、そこまで気にかけていてくれたのか、と胸が熱くなった。
「子供じゃないもの」
その風に怯えていたくせに、そう虚勢を張ってみる。
そうか、と頷いて斉藤は再びの髪に触れる。


斉藤の心理を知りたい、と一時狂うほどに思ったことがある。
好きだとか、愛しているとか、そういう言葉を引き出してみたくて、
は悶々と模索したものだった。


でも今は些細なことだと思う。
例え片恋だったとしても、いいのだ。
そう吹っ切ると気持ちが楽になった。
一緒に住みたい、とが駄々をこねた時も、
斉藤は黙って休息所につれてきてくれたから。
言葉は交わさなくとも、ままごとでも、側にいられる。


それよりも彼を失ってしまうことが何よりも怖い。
若いには遠いものだったはずの「死」が、斉藤には一瞬先に鎌首をもたげていそうで、
震えるほど怖い。


、家に帰ってもいいのだぞ」
斉藤の腕の中では顔を上げた。
一種凄みのある精悍な顔つき。焼けた肌。通った鼻筋。
鋭い一重の眼差しは、今は穏やかにを見つめている。
「帰りません…」
斉藤の胸に顔を押し付けた。
男の香りと感触を感じて、何故だかは泣けてきた。
「泣くな」
静かに告げたその声は思いがけず焦った響きを伴っていて、
は泣きながら笑う。


相変わらず風は戸外で鳴っていたけれど、もうここには届かない。
微かな灯かりは暖かく二人を包み込んで。


とく、とくと力強い斉藤の命の脈動が聞こえてきて、は切ない気分になる。
生きている。ここにいる。側にいる。

にとってはそれが世界のすべてだから。

眠りは忍び寄るように訪れた。
一人では成し得なかったことが、彼がいるだけでこんなにも容易い。

世界がどう変わってもいい。

どうか命よ燃え続けて。

もう一筋涙が頬を伝って、柔らかな布団に染みていった。



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