時代劇を見る際によく現れる「切腹」の場面。
しかしそこには誤解される場面が多いように思う。
なおこの文章は私個人が調べ(ていうか19歳の時のレポートだよ!)、
そして出した考えでありますので、軽い気持ちできいてください。
あからさまな間違いがありましたら、指摘してくださると嬉しいです。  


T切腹の起源


切腹は自殺の一つの方法である。 人間独特のこの行為が行われるようになったのは、
文明の進んだ社会になってからで、 原始時代には自殺者は稀であった。

しかしその方法も民族によって様様で、中国人には服毒自殺が多く、印度人には焼身自殺・投身自殺が多い。
日本人の切腹は俗に「ハラキリ」と称せられて、外国人に恐れられ、不可解とされてきた。
しかし日本においての自殺の初見は首吊り・服毒であったらしい。  


U誰が切腹第一号か?  


では誰が切腹の第一号だったのか。
それには三つの説が存在する。

@“淡海(おおみ)の神”説 《霊亀2年(716)以前》)

「(略)みずから、刀を持ちて腹をさき、この沼に没りき。 かれ、腹さき沼と号く。その沼らの鮒ら、今に五臓なし。(略)」
『播磨風土記』の文面で、切腹という文字は出てこないが、明らかに切腹・割腹である。
しかも「鮒等、今に五臓なし」というくだりから、 淡海の神は腹を切り、五臓を掴み出して入水したと考えられる。
これは後年の切腹の常道で、この一句で初めて切腹が日本に現れている。  
これを第一号とすることの問題点は、 人間が神よばわりされている古代の神話を現実化するのことは許されないということである。

A“袴垂こと、藤原保輔”説 《永延2年(989)》

これは切腹研究者の間で、一応切腹第一号として定説になっている。
この袴垂は平安時代の泥棒で実在もほぼ確かな人物だが、 問題なのは記載の『続古事談』が資料文献として信用がおけない点である。
『続古事談』(編纂:1219年)は編者不明で諸国の伝説・説話を集めたもので、 真実から離脱している可能性が高い。
袴垂が藤原致忠の子、保輔としていることも、 物語的で他の資料には見られない。

B“鎮八郎源為朝”説    《嘉応2年(1170)》

この本の成立は鎌倉幕府の初期の頃で、多少の誇張はあるかもしれないが、 武士の勇気ある果敢な行動として、
見本となる武士像がこのころ出来上がっていたに違いない。

以上の三つの説の中で、私が考えるのは、 第一号は“淡海の神”以前であったのではないかということだ。
神の行為といえども、『播磨国風土記』が書かれた以前から 切腹という行為は人々の間で浸透していたと考えられる。
その自殺方法が一般的であったかは別として、行っていた人々がいたのではないか。
それを行っていたのは神に例えられるような高貴な人物であったのかもしれない。
いずれにしても文献に第一号と確定した人物が残っていないのは事実である。


V切腹は何故生まれたのか?


切腹での自殺は耐え難い苦痛と長い時間を要する。
腹には脂肪が多いため、突き刺し横に切り裂くだけでも相当な力が必要で、 失神するほどの痛みがある。
しかもそれだけでは中々絶命しないのである。 思いきり切って腸が飛び出しても、その後19時間生きていた記録もある。
よって自ら致命傷を加えるために、割腹の後に淡海の神のように入水したり、 一度刀を抜いて喉笛や心臓を突き刺すのである。
時代劇に見られる、ぐさっと刺して次の瞬間絶命する場面は、全くあり得ないのである。 このような切腹を行いやり遂げることは、超人的な勇気と気力を必要とする。
この最も困難な切腹という自殺方法が、日本で好まれたのは 切腹の要求する勇気と気力を看板とする武士という階級が現れたからだ。
武士にとって、戦場において最後の死に際に最も美しく死ぬ方法が切腹であり、 首吊りや焼身自殺など女子供のすることで、恥ずべきものとされていた。
よって中世では勇気を誇示する余り、割腹した上、腸を掴み出して敵に投げつけるという 離れ業を披露する豪傑も現れたりした。

W切腹の発達

一言に切腹と言っても、一文字腹・十文字腹・立腹・無念腹・扇腹・詰腹など色々な種類があるが、
江戸時代になってからこれらの呼称が決められたり、 武士道が理論付けられ、切腹の作法礼法がやかましくなった。
そしてそれを心得ていることが武士のたしなみとされた。 この頃には続く平安で武士の気概は消え、死は静かであるべきだという考えが広まり、
腸を取り出すような行為は「無念腹」と言って忌み嫌われるようになった。
切腹と言っても、腹を切ることよりも、首を打ち落とす介錯が実質的な主体になっていく。
江戸時代の切腹の有名な例として、俗に忠臣蔵と呼ばれる赤穂浪士の切腹があるが、
彼らの切腹も、脇差を腹に当てた時点で介錯人が首を落とすというようなものであった。
公式の場合はこの介錯は三人でするのが慣例となる。
主役の首切り役とその介添役、 そしてもう一人は切腹後に死者の首を検視役に供するという役目を持っていた。
もちろん一番難しいのは首切り役で、緊張して失敗したりすると恥になる。 江戸時代になると、人を切ったことのない武士のほうが圧倒的に多い。
見当を違えて肩先に斬りつけ、切腹者から「落ち着いて!」と注意されたという逸話も残っている。




参考文献
大隈三好『切腹の歴史』雄山閣出版 平成7年
中康弘通『切腹 悲愴美の世界』国書刊行会 昭和62年
八木哲浩『忠臣蔵』第一巻  兵庫県赤穂市 平成元年  
神戸説話研究会編『続古事談注解』研究叢書150 和泉書院 1994年  
故実叢書編集部『貞丈雑記』改定増補故実叢書一巻 1993年  
千葉徳爾『負いくさの構造-日本人の戦争感-』平凡社選書153 1994年