大丈夫です。平気です。
最近は総司のそんな言葉ばかりを聞いている。
人のために言う口当たりのいい言葉など、もう聞くのは飽き飽きしていたにも関わらず、
自分には上手く現実が見えてなかった気がする。
自分がいつのまにか作り上げた身の回りの寒々しい虚無感を、見つめる勇気がなかったのかもしれない。










鮮烈な
虚無と形










だからやめておけと言ったのに。

土方はそう怒鳴りたくなるのを呑み込んだ。
紀州沖の激しい波の揺れで憔悴しきった総司は淀んだ瞳を向けている。
辺りに血と嘔吐物の匂いが立ち込めていて、
土方は吐きそうになった口元を押さえた。

「とにかく俺の船室に行こう」

土方は総司の脇から手を入れ体を支えた。

「大丈夫ですよ、大げさだな」

今更そんな台詞を言う総司を殴り倒したくなるのを抑えて、
土方は総司を睨みつける。

「おお怖」

首をすぼめる仕草に部屋にいた隊士から失笑が漏れた。
この状態でよく軽口が叩けるものだ。
土方は大きなため息をついて、総司を引っ張るように大部屋から連れ出した。










船底の大部屋には負傷者が寝かされている。
船医がいないため、ろくな手当ても受けられない状態だ。

とにかく江戸へ。

皆そんな心理に駆られている。
江戸に着いたとしても事態は何の好転もしないというのに。










「大丈夫ですから」

総司は富士山艦に乗り込む前、今にも倒れそうな顔色で土方に訴えた。
もう何度聞いた言葉だろう。
大丈夫、平気だから、心配しないでください、と。

「しかし」
「私を京においていく気ですか」
そう言われると、土方は言葉に窮してしまう。

「だが今のお前の体力で江戸までの船旅を乗り切れるとも思えない」
船の揺れ、そして真冬の寒さ。
例え石炭を燃やして進む亜米利加の鉄の船といえども快適な旅とは言いがたい。

「陸路なら、もっと無理だ」
総司の瞳は妙な強さを発していて、土方を戸惑わせた。
確かに陸路で江戸で帰ることが出来ない怪我人が多いから、
榎本に交渉して軍艦富士山に便乗する許可を貰ったのだ。
しかし繰り返す喀血による貧血で体力低下が著しい総司を乗せることに不安を覚える。
治安の悪い京に一人置いていけるわけもないのだが、
この船旅が総司に決定打を与えてしまうのではないかと思うと躊躇ってしまう。

「絶対に着いていきますから。絶対に」

きっぱりと言い切って、総司は布団を被り背中を向けた。










”絶対に着いていきますから。絶対に”

どこかで聞いた台詞だと思っていた土方は、それに思い当たり苦笑する。
ああ、そうだ。
数年前京に向けて出発することを決めた時、総司は同じように強い眼差しをむけ言い切ったのだ。
まだあどけない幼さと野心を残した、あの頃の自分たち。

”私を置いて行くつもりですか”

結局、いつだってそんなこと出来はしないのだ。











一月十二日大阪天保山開錨。
江戸へ。
多くの病人と敗戦者を乗せて。
希望に満ちて上った京からの帰郷は、
朝敵となって逃げるように敗走するという呆気ない幕切れとなった。










軍艦に乗るというのは、土方にとっても初めての体験だった。
京から引き上げる準備をし、大砲や銃といった武器の類を積み、
傷が癒えきらない近藤に手を貸し、隊士たちを乗せるという作業に土方は奔走した。
ようやく出航にこぎつけ、用意された船室へと腰を落ち着けてふと気づく。
総司がいない。
ちゃんとした部屋をあてがうように指示したつもりだったが、伝達不足だったのだろうか。
各部屋を周り、多くの隊士が収容されている船底の大部屋でやっと総司を見つけたのだった。











「ああ、暖かい」

部屋に入ると総司は息をついた。
船底に比べれば暖かいかもしれないが、それでも真冬の海は凍える寒さである。

「布団を被って横になれ」
文句を言うかと思えば、素直に総司は言われた通りにした。
本当に、体が辛いのだ。

「土方さんはどこで寝るんですか」
「どこかに部屋を用意してもらうさ」
「一緒に寝ますか?」
「やなこった」

くすくすという笑い声が唐突に咳に変わる。
「笑うな、馬鹿」
慌てて背中をさすると、徐々に咳は収まっていった。
血を吐かなかったことに土方は安堵する。

「江戸に帰るんですね…」
荒い息を繰り返しながら、総司は目を閉じる。
公用で数回江戸を訪れていた近藤や自分と違って、
総司は一度も帰ってはいないのだ、と土方は思い当たった。

「変わっていないのかな…江戸は」
「変わらないさ」

言われてみると、かつて肌に馴染んだ風景も食べ物も言葉も懐かしかった。
三人で遊んだ川、昼寝をした試衛館の縁側、姉夫婦の笑顔。
色んなものが脳裏を浮かんでは消えた。

「でももう」
総司は言葉を切る。
「なんだ」
「何でも」
「言え」
「・・・」

総司はゆっくり目を開けた。天井を見つめる瞳。
「江戸に帰っても、もうあの頃へは戻れないんだなと思って」

当然だ。
だがそう笑いながら認めるには、俺たちは沢山のものを失い過ぎていた。
源さん、平助、山南さん…。共に笑いあった友人たち。
かっちゃんは銃弾で弱り、総司は消え入りそうな命を必死で支えている。
たった五年、たった五年で。
こんなにも多くのものを。

「俺には感傷に浸る資格なんか、ないがな」

多くの者を死に追いやった。
後悔に似た虚無の念を覚えることはあっても、
もう一度同じ場面に来たらきっと自分は同じ選択をするだろう。
愚かしくもまっすぐに、ただ進んできた軌跡。

自嘲気味に笑うと、総司は静かな目を向けた。
「あなたはもっと言い訳をしてもいいんだ。
自分にも周りにも。無言で責めを受けるあなたを見るのは悔しいですよ」

上手く言葉を返せなかった。
「・・・馬鹿野郎」
そう言って、土方は俯いた。
足元が波でぐらぐら揺れる、転ばないよう立っているのがやっとの船の上で、
これ以上身近な誰かを失うことに自分は耐えられるだろうか、と土方は初めて不安になった。

”絶対に着いて行きますから。絶対に”

そう言うお前さえも、俺の前から消えようとしているのに。