09. 四角い青
「大丈夫か」
前を歩いていた土方が振り返った。
本当は歩幅も全然違うのに、こうして背中について行かれるのは、
男が自分に合わせてくれているせいだと気づく。
「平気どす。でも…」
「なんだ?」
「ええんどすか?こんな」
こんな目立つこと。
こういう風に大手を振って二人で歩いたことがないから落ち着かない。
土方がこの関係性を誰にも悟られたくないと思っていることも分かっている。
別にそれについて不満はなかった。
もともと、釣り合う身分でも立場でもないし、自分は彼にとって有益な人間とも言えない。
この人形遊びのような逢瀬が続いているほうが不思議だった。
お互い何も求めないし、何も聞かないという法則が、いつの間にか出来上がってしまっている。
「どこ行かはるのん?」
駒の質問に土方は笑って答えない。今日の土方はどこか悪戯っ子のような顔をしている。
諦めて、駒は黙って着いていくことにした。
日中の道は明るく人通りが多い。
店の屋根が間隔を空けずに連なり、切り取られた四角い青が頭上にある。
二本差しを追う、空の籐箕を抱えた白川女を、不思議そうに人が振り返るので、駒は次第に俯きがちになる。
普段商売には目立って便利なこの服装を恨めしく思い出した頃、土方が足を止めた。
見ると、路地端の売り子と土方は親しげに会話を交わしていた。
「おおきに、おこしやす」
「先日の…」
「へぇ。覚えとりやす。綺麗に花ぁつけましたえ」
「そうか。すまんな。これは手間賃だ」
「おおきに」
土方が受け取って、こちらに向けたそれを、駒は驚きで凝視した。
「歳三はん…」
「ああ」
それは、朝顔だった。
土色の鉢に細長く枝分かれした形の葉が落ちている。椛葉(もみじは)というのだと駒は知識で知っている。
品種改良で生まれた通好みの変り種というやつだ。その先にある白い蕾は当然ながら今の刻では開いていない。
白川では基本的に仏花以外に扱わないので、駒にも朝顔は珍しかった。
「あの…」
訳が分からず向けた視線を、土方は困ったように受け止める。
「花売りに花を贈るのは、やはり無粋か?」
贈り物。
一瞬その意味が理解できず空白になった後、ええっと駒は声を上げた。
「馬鹿。大きな声をだすな…」
馬鹿と言われてしまった。
「先日、大阪に行った時に見つけたんだ。屯所に持ち帰ることが出来ずに、
まぁ世話も出来ないし…、朝顔売りに任せたんだが。そろそろ咲きごろだというのでな」
「丁度明朝が最初の開花日どす。どんな柄になるか楽しみどすな」
そこで口を挟んできたのはその朝顔売りだ。
当然駒の格好から男が花を贈ったのが白川女だと分かっているのだろう。
どこか笑いをかみ殺したような口調だ。
「ああ、ありがとうな。…行こう」
土方は駒をせかせて歩かせながら、
「京ではそうでもないようだが、朝顔は江戸では人気のある花だ。
競って珍しい出物と呼ばれる奇葉・奇花が育成されていて、
そういうものはとんでもない高値がついたりする。まぁ一種の娯楽だな」
まるで言い訳をするかのように土方は口数が多くなっているが、当人はそれに気づいていないようだ。
「花の柄は咲いてのお楽しみと、そういうことだ」
「歳三はん」
土方は駒を見る。
「うち、ほんまに嬉しおす」
「うん」
「沢山花は売ったけど、自分がもろうたの、初めて」
土方は虚をつかれたような顔をした。
駒はただ嬉しくて、土方の抱えている鉢を受け取って、両腕で抱いた。
土方はどこかの店に入ろう、と言って駒をどこかへと誘導していった。
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10. 禁忌
「静か…」
ふと箸を止めて、駒がそう言うと、土方は薄く笑って視線をあげた。
その様子が女の自分でも引け目を感じるほど艶やかだったので、
駒はばつが悪いような気分になる。
そこに着いた時、駒は絶対に入らないと駄々をこねた。
宵の口でも煌煌と灯りを焚いている料亭なんて入ったこともなかったし、
そもそも駒は仕事着のままなのだ。門前払いをされるに決まっている、絶対嫌だと言った。
しかし土方は自分の行きつけだから大丈夫、と半ば強引に、
…言葉は悪いが、連れ込んだのだ。
「駒が黙り込んでいるからだろう?」
「そんなこと言うたかて…話しにくい」
余裕のある作りなのか、廊下にも左右の部屋にも人の気配がない。
ついつい小声になってしまうのだ。
二人分の軽い酒肴が運ばれてきた時、お酌をしなければと慌てて徳利を取ったのだが、
土方は一緒に食べて欲しいとそれを断った。
「俺は農家出身だからな。自分だけが食べていると落ち着かないんだ」
土方が武家の出ではないことを初めて知った。
こうして向かい合っていても、分からないことは沢山ある。
膳が下げられると、駒は窓辺から下を見下ろした。
もうすっかり日が落ちたらしい。
この窓にはまだ珍しい硝子が嵌め込まれている、
風景をぼやけさせるそれは、通りをはさんで向かい側の宿の灯りを、
ぼんやりと染み込ませていた。
どうして、土方は自分をここに連れてきたのだろう。
花を贈ってくれたのだろう。
聞いてみたいと何度も思ったが、口に出したら、
それはありふれた女の言葉になってしまうような気がして躊躇われた。
代わりに駒は口を開く。
「例えば、今自分が死んだらどないなるのやろ、と思うことがあるんどす」
土方がすぐ後ろまで来ている気配がする。
「うちらが花を手折るみたいに、人のせいなんて一瞬や。
売りに出た京の街で何かの騒動に巻き込まれてばっさり…とか。
こんなご時世やから、ありえることどすやろ。
うちら花売りはな、花ていう命をあがなって生きとるさかい、
その重さもあっけなさも、よう知ってるんどす…」
一度言葉にすると止まらない。
それは日々心に抱いている恐怖でもあった。
例えば今。例えば明日。誰が私を見つけて哀しいと言ってくれるだろう。
「せやから、あの朝顔の鉢。ほんまに嬉しかった。
あれは切り取られた死体やおへん。うちらとおんなじように生きているものやから」
土方は、自分が以前言ったことを覚えていたのだ。
"大地から離れた後の花はもう死体"
「ありがとう」
命をくれてありがとう。
言った駒を、土方が腕を伸ばして引き寄せた。いつも遠くから薫っていた、
あの白壇の香織が強くする。駒も同じように抱き返すと、
背中に回された土方の腕が、存在を確認するかのようにゆっくりと上下した。
駒はその心地よさに息をつく。
何故だろう、こんなに職も立場も違うのに、私達は根の部分でとても似ている。
孤独は表に出せばひどく陳腐なものになることを、分かっていることも。
初めて感じた人の肌の温度はただひたすらにあたたかく、優しかった。
本当は、愛を告げるべきなのかもしれない。
でも土方は何も言わなかったし、それで構わないと思った。
「駒、」
ただ、名前だけを呼ばれる。
言葉も、定義も、必要ないと思った。
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11. 墓地の足跡
朝になって蕾を開いたその朝顔の花の柄は友禅絞りと呼ばれるものだったらしい。
鮮やかな刷毛を引いたような幾筋もの線が走り、ところどころに暈しが入っている。
その濃淡の美しさが、友禅に例えられてそう呼ばれているのだ、と駒が告げる。
その名前の風流さが気に入った。
発句に取り入れられないだろうかとしばし推敲する。
俳句のことを考えるのも、本当に久しぶりだった。
一番咲きを、二人で見られて良かった。
たぶん駒も、そう思っているのではないだろうか。
朝の瑞々しい空気が窓から入り込んでくる。
沈黙は重くなく、お互いの存在が心地よい。
行儀悪く肘をつき、並んで花を見ているその微かに触れ合った二の腕から、素の熱が伝わってきていた。
ふと駒は体を起こし、あねさんかむりにしていた手拭に手を伸ばした。
白い腕が一瞬むき出しになり、そして引き寄せられる。土方はそれを目で追った。
─この手拭はな、毎年図案を決めて白川女が示し合わせて作るんえ。綺麗やろ。
─左下の隅の一角が、赤く染められてますやろ。これをうちらのまじないどす。
うちらはもう血を流しとるから、これ以上血を見るのは勘弁しとくれやす、
っていう意味があるんどす。いつ事故にあうか分からへんお勤めやさかい、
うちらは働きに出る時はいつも、この手拭を身ぃに付けとりやす。
─せやから、
駒は微笑む。
─歳三はんに、これを持っておってほしいんどす。もろうた友禅の、花の代わりに。
それを聞いて、この娘はどこまで自分の仕事について知っているのだろうと土方は思った。
思えば不思議なおなごだった。
親密な間柄になれば必ず伴って発せられる欲求、例えば言葉が欲しいとか、会いたいとか、
自分だけにしてほしいとか、知りたいとか、そういうものを不自然なほど一切要求してこない。
京の街で自分達に関する罵詈雑言を、耳にしているだろうに、こんな風に身を案じて見せるのだ。
─血を、流さずにすむよう。
受け取ったその雅な手拭には、損得を抜きにした純粋な暖かみが込められているように感じられた。
家族に向けられるような、暖かな愛情。
その日の朝、まだ人の少ない通りで二人は左右に別れた。
繋いだ指先が、それぞれの道へと離れていく。
砂利を踏む音が聞こえ、自分でも意識せぬうちに土方は思わず振り返っていた。
「──」
すると駒も同じく首をめぐらせたところだった。
まるで、初めて会った時の、再現のように。
「また、」
そんな風に、自分から次のことを口にしたのは、思えば初めてだったかもしれない。
朝靄が残る空気の中で、駒が嬉しそうに笑ったのが見えた。
12/5
12. 切れないハサミ
朝起きて、洗い立ての着物に袖を通してすぐにすることが、最近出来た。
急く気持ちを抑えて庭に面した障子を開けた。夏の朝の日差しが廊下に伸びる。
ああ大丈夫だ、朝顔は今日も美しく花開かせている。
確かめると安心して、駒は笑顔になった。
すらりと顔を上げている花のその様子は、まるで人間のように誇らしげだ。
水をやりをしながら、土と葉が水分を吸収していく様子を楽しむ。
そろそろ庭に植え替えようと思っているのだが、仕事用の花々に手を取られていて、
なかなか時間が取れなかった。
今は一番多くの花が咲いている。来年用の良質な種を残すためにも、頑張りどころだ。
それに、この朝顔を植えるのなら庭で一番日当たりの良い場所を探してあげたかった。
手を止めて、水滴を弾いている薄紅の花弁に指を触れる。
薄く、柔らかい、力を入れたらすぐに壊れてしまいそうな感触。
人間の肌に、少し似ているかもしれない。
自分の思考に少し苦笑する。さぁ畑の様子を見に行かなければ。
膝に力を入れて、立ち上がった。今日もいつもの一日が始まる。
前垂れをつけ畑に入っていくと、同じようにほっかむりを付けた女たちから声がかかる。
「おはよう」
「おはようさん」
誰もが同じ格好をしているから、俯いたままでは誰が誰やら見分けがつかない。
「お駒ちゃーん」
その中で美代が顔を上げて、手を振った。駒はそちらのほうへ歩いていく。
「おはようさん。お美代ちゃん、今日は売りの日かいな」
「そうやなぁ。そろそろお得意さんとこの花が萎れるころやからなぁ」
駒は座って、美代の花束作りを手伝い始めた。
水を使っていても、もう凍える季節ではないから、楽といえば楽だ。
その代わり、日差しが強いので、外に出ていると体力を消耗する。駒はほっかむりを被りなおす。
いつの季節といえども、楽と思える日はあまりない。
水場の女たちは皆、一様に真剣に作業している。
左手で束を持ち、右手で花を添えていくその作業中は、彼女達の夫である男さえも、
声を掛け辛いほど張り詰めた緊張感があるという。
何故そのように毎日働くのかと問えば、皆声を揃えて、客が待っているからと言うだろう。
寒い日も暑い日も花を売りに行くのは、自分の担当の地域の人々が花を待っているという矜持がある故なのだ。
そして自分達が扱っているのは、生き物である花である。
一日も欠かせることが出来ないのは道理だ。
白川女には矜持がある。だからこそ、美しく見えるのだ。
「時間、間に合う?」
「どうやろ…。他の子に先越されるかもなぁ。あ、ごめんなお駒ちゃん、やらせてしもて」
「かまわへんよ。お互いさまやないの」
「今日も友禅絞りは咲いとった?」
「なんやの急に。手ぇ動かしなさい!」
「はぁい」
二人は笑いあう。
駒が毎朝朝顔を見ているのを美代は知っていてからかっているのだ。
事情は何も言っていないのに、聡い友人は察しているようだった。
「お駒ちゃんが元気になって良かった」
「何言うとるの。私はいつも元気どす」
嘘やー、と笑う美代にわざとつんとした横顔を見せる。
隠しているつもりでも、喜怒哀楽が顔に出てしまっていたらしく、少し悔しい。
でもなぁ、と駒は声を低くした。
「みぶろもなぁ。昨日売りに出た子に聞いたんやけどな。あ、お駒ちゃん知ってはった?」
「何を?」
「なんやこの二日くらい、ぎょうさん見回りが歩いてたり、門前に見張りが立ってたりするんやって。怖い顔でな。
得意先の商屋さんもな、あんな不景気な顔で市中闊歩されたら売りに響くわぁって嫌な顔しとったって」
「…そうなん?」
「うちが行ってる木屋町の辺りもな、長州はんがえらい出入りしとるし…。何かあったんやろか」
黙り込んだ駒に、美代が覗き込む。
「…何かあちらさんから聞いはる?」
「何も…」
仕事のことなど、何も、何も知らない。
「お駒ちゃん、明日売りやったな?皆言っとるけど、なんやちょっと危ない感じするな、気ぃつけや」
駒はただ頷いた。作業をする手を早める。
切れない鋏で茎を切ってしまったときのような、不吉な感触がした。
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13. 耳鳴り に続く