05.子守唄


このところ、近藤が塞ぎ込んでいることが多い。
将軍の上洛から日々が過ぎても、公武合体も叶わず
一向に事態が進展しないことを憂いてのことだった。
その上病床にいる容保候の京都守護職への復帰も見送られ、新撰組は微妙な立場にいる。
第一、近藤が京都で行いたかったのは浪士の取り締まりなどではなく、攘夷だった。
このまま市中見回りのお役目が続くのなら、いっそ新選組を解散させたい、
などと言い出す始末で、土方は辛抱強く愚痴を聞き、今に事態は好転すると慰めた。

土方は土方で、頭の痛いことが多い。
四月から始めた監察方の長州人探索が一向に実を結ばないことにも焦りを感じてはいたが、
何よりこの時期脱走が多発していた。加えて男色が流行している。
規律の緩みを早急にどうにかしなければならなかった。
よって土方は隊規を強化した。切腹なんて四十七士じゃあるまいし、
と困惑する隊士がいるなか、土方は定めを断行する。
試衛館の仲間内からすら、厳しすぎるのではという声が上がった。
勿論土方は取り合わない。隊規など厳しすぎるくらいで丁度良いと思っている。
眉を寄せ、むっつりとした不機嫌顔がすっかり板についてきた頃だった。

「疲れてはるんやないの」
顔をあわせて早々、駒がそんな言葉を言う。
「そんなことはない」
「嘘や。ほら」
駒の手が伸びてきて、瞼の下に触れた。ひやりとした感触に、
思わず土方は目を瞑る。我ながら、なんて無防備な反応だろう。
「くまが出来てる。夜、きちんと眠れてます?」
「冷たくて心地良いな」
「そないなこと聞いてへん」
土方は笑った。指が離れていく。
駒の指はボロボロに荒れている。
絶えず水を使い、花を扱うせいだった。
茎や葉が指を傷つけ、細かい切り傷が絶えることはない。

二人、小さな茶店に来ていた。最初のうちは、壬生で花を買う際に
立ち話をしていたのだが、それが少しの間と言えども若い男女の姿は目立つらしい。
たまたま通りかかった隊士の一人が興味深そうな視線を投げていくのを見てから、
壬生から離れた場所にあるところで、時をあわせて待ち合わせるようになった。
しかし駒は花をすべて売り終えていない時は、花が痛むからと早々に立ち上がってしまう。
今日落ち着いて腰を下ろしているのは、籐箕が空だったからだ。
以前、生活が苦しいのかと土方は聞いた。妥協なく商売をする様子は、
金銭的な余裕がないゆえなのかと思ったのだ。しかし駒は違うと言う。
では何故、と重ねて聞くと、駒は言った。
「花が売れ残るのが嫌やねん。…だって」
「だって?」
「花は死体やから」
土方はぎょっとした。駒は前を向いたまま、淡々と答える。
「大地から離れた後の花はもう死体どす。後は枯れるだけ。
そんならせめて、人の手に渡って、綺麗やと褒めて朽ちるのを見届けてもらうのが、
うちの務めやと思うんどす。育てて摘んだのはうちやから」
こんな若い娘が、死体だと思いながら花を売っている。
華やかな姿で、手を指をボロボロにしながら、広い京都の街を自身の足で歩いて。
それから土方は街で見かける白川女もその頭に抱いた花も、
ただ無責任に美しいなどと、思えなくなってしまったのだ。
花は死体だと言い切った、その清廉な眼差しが忘れられない。

「甘いものを食べると疲れがとれるていいますえ」
駒はそう言って、目の前の団子を勧めた。京に来て初めて食べた一口大の小さな餅だ。
店主が目の前で櫛の先端に刺さった餅を焼いて、タレを塗る。
ほんのり焦げた味がして、甘いものが苦手な土方にも美味しく感じられた。
「歳三さん、昔おかあさんに歌うてもろうた子守唄て覚えてる?」
「おい、なんで急に子守唄なんだ」
口元に持っていった緑茶を飲み損ねそうになって、土方は言った。
駒と話していると、日常には決して出てこない単語が頻繁に話題にあがる。
花の話、餅の話、三条の旅籠の奇妙な呼び込み文句の話、そして子守唄の話。
いいから答えてくれ、と駒は笑う。
「…そういえば思い出せないな」
言われて考えてみたけど、本当に思い出せなかった。
駒は残念そうな顔をする。
「うちも。なんでかなぁ。歌うてもろうた記憶はあるのに、
どんな唄やったか、思い出せへんの。それ覚えてたら歳三さんも眠れるかなぁと思うてんけど」
「俺はともかく、駒は親に聞けばいい」
「もうおらへんからなぁ」
悲観するでもなくさらりと駒は言う。そうか、とだけ土方は答えた。
「でもうちはな、大丈夫やねん。子守唄ってな、もう一つ、あんねんよ」
駒は格子窓から外を見た。土方もつられて顔を向ける。
店の中からでは信じられない程明るい日差しが、格子の隙間から滑り込んで光の筋を顔に落とす。
窓の向こうの道には沢山の人が交差していくのが見えた。

「育ったところの風景。これからずっと忘れへん。
向こうのほうまで畑が広がっていて、風が吹くと順番に緑に波が立つの。
冬になったら山も野も一面真っ白になって、音が皆消えてしまう。
夜着の中で、その風景を思い出すと、すーっと眠れんねん。
そういう風景、歳三さんにもあるやろ?」
言った駒の横顔は静かだった。そうだな、と土方は答える。

言われるまで、ずっと忘れていた。思い出しもしなかった多摩の景色が、
堰を切ったようにあふれ出す。歳三、と呼んだ母の声も。
顔も、その声音も記憶の彼方に埋もれてしまったのだと、思っていたのに。
それともあえて自身で、奥のほうに故郷をおいやってしまっていたのだろうか。
必要のないものだと、そんな勝手な判断をして。

気がつくと、駒が小さく唄を口ずさんでいた。
土方の知らない、京都の民謡だ。
外を行く荷車の騒がしい音に、ともすればかき消されてしまいそうなほど、小さく。
土方は黙ってその歌声に耳を澄ませた。
不眠症気味だった自分にも今日こそは、降るような眠りが訪れるだろうかと、
ぼんやり思いながら。



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06.吐息

雨が降っている。縁側から眺める庭の木々が水分を吸って、
緑を深めたように見える。絶え間ない微かな雨音にぼんやり耳を傾けた。
濡れた大地の豊かな香り。花が水を含みすぎて腐らなければいいのだけれど。

このところ、ため息ばかりついていると、美代に指摘された。
最初、美代の冗談かと思ったぐらいだ。そのくらい自覚がなかった。
あの人といる時ももしかしたらため息ばかりついてしまっているのだろうかと、
ひどく不安になったけれど、あいにく確かめる術はない。
梅雨になって雨が続いているから、しばらく畑につきっきりで、街には出ていなかった。

晴れればいい、と思うけれど、晴れなければいい、とも思う。

待ち合わせの場所はあるけれど、あの人は来ないこともある。
それが何故なのかは知らないし、そもそも何を生業にしている人なのか、追求するつもりもなかった。
ただたまに話すことが出来ればそれでいいと思っていた。息抜きみたいに。

でも苦しいのだ。

もっと、と思う自分がいる。
もっと沢山のことを知りたい。もっと声を聞きたい。
もっと笑顔を見てみたい。もっと近しい人になりたい。

駒、と呼んだ低い穏やかな声が蘇る。

欲望はどこまで膨れ上がるのだろう。
これで充分と思っていても限りはなく、知れば知るほど貪欲になってしまう自分を感じて、怖かった。
重く卑しい心うちをあの人は知らないのだ。

晴れればいい。あの場所に行けるから。
晴れなければいい。行って会える保障がどこにある。

どちらにしろ、苦しい。

縁側から下ろした素足に霧のような雨がかかる。
膝を抱え込んで、冷えた足を擦った。
まるで自分のものじゃないような別物の感触。
しん、と静かな家の気配が、とてつもなく寂しい。

会えない分だけ、萎んでしまう想いなら、楽だったのに。


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07. 石楠花

雨が上がったようだ。
闇に包まれた庭に白い花がぼんやりと見えていた。
幾つもの花弁が重なり合って咲いている白い塊。
暗い庭でそれだけが際立って鮮やかだった。
立ち込めているむせそうな夏の夜気。一体何の花だろう。
一人手酌で酒を飲んでいた土方は闇に目をこらす。
「石楠花ですよ」
唐突に掛かった声に、訝しげに振り返った。
部屋の入り口で女が悠然と微笑んでいる。後ろに控えた禿が深くお辞儀をして、
頼みもしないのに襖を閉めていく。
「花、お好きだったかしら」
まるで存在を許されるのが当然のような淀みない仕草で、女が一歩近づいた。
長い着物の裾がすれて、すらりと衣擦れの音がする。
「呼んだ覚えはない。下がれ」
「あら冷たい。歳さんがいらっしゃってるって聞いて、客を蹴ってきたのに」
土方の邪険な物言いにも、まるでひるむことはない。
艶やかな笑い方も、側に座る裾の払い方も、何もかもが商売女らしく垢抜けていた。
「俺の台詞が聞こえなかったか?」
「何よ今更」
よく見知った、含みのある表情。幽かな行灯の灯りに扇情的に浮かび上がる。
「知らぬ仲でもあるまいし」
普通の男なら、それだけで陥落してしまいそうなほどの。

家茂候の東帰警護のため、大阪に来ていた。京都へ帰る前日の晩、
新地へ行こうと言い出したのは土方だ。沈む近藤を思いやってのことだ。
いつもの面子が馴染みの顔を部屋に消えても、土方だけは誰も呼ばす、
静かな部屋と酒だけを乞うた。もとより女を抱くつもりもない沖田が
「青天の霹靂」とからかうのを聞こえないふりをしながら。

「随分と久しぶりねぇ。聞いたわよ将軍様の警備ですって?」
女はそう言いながら優雅な角度で酒を勧めえてくるが、土方は掌でそれを断った。
相変わらず耳が良い。この歯に衣着せぬ江戸風の女ぶりと華やかな外見とを気に入っていて、
土方は大阪に来るたびにこの女を指名した。しかしそれも最近になって途絶えている。
「いいから下がれ。女も酌もいらねぇと伝えてあったはずだ」
本当に青天の霹靂だ。魅力的なはずの女の寄り添う体温にも柔らかな感触にも、
何にも心を動かされなかった。ただひどく面倒だった。
隊士を相手にしているような冷たい言い方になったけれど、訂正する気も起こらない。
「何よその言い方…」
ムッとした気配を無視していると、無遠慮に太ももに置かれた手のひらが強引に首の後ろに廻った。
「おい…」
女だと思って一瞬突き放すのを迷ったのが良くなかった。噛み付くような口付けをされる。
ガタン、と大きな音がして徳利が転がった。畳に染みを作る酒を土方は目線で追う。
その水溜りに膝をついて女の体が圧し掛かってきた。

熱っぽく舌を絡め取られても、心の芯が冷えていた。
(そういえば手元に大刀がないな)と考える。今の状況と何の関係もないことを。
(ここで一夜を明かすつもりだったが、無理そうだ。今から宿が取れるだろうか。
総司はどこに泊まったのだろう。そこに転がり込んでも良い。)
いつもそうだ。心のどこかで冷静な自分がいて客観的な分析を始める。
近藤たちのように女や情事に我を忘れてのめりこむことが出来ない己は、たぶん人として、
大切な部分が欠落してしまっているのだ。いや生物としてといったほうがいいのかもしれない。
犬や鳥でさえ、相手を愛するというのに。

自分はこんなにも空虚だ。

強い白粉の匂い。衿元を乱す、荒れのない白い指。
しかしそれでも今まではそれなりに楽しむことは出来たというのに。
口付けというよりは唇という体の備品を合わせているくらいの感触しか今は訪れない。

また雨が降り出したようだ。細かい雨音。
女の肌のようなあの白い花弁に、滴が落ちる様子を想像する。

…花か。

目の前に女がいる。たぶん抱こうと思えば抱ける。
でもそれで、一体何が満たされるのだろう。



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08.陽炎


「雲が西向いて走ってるし、明日は晴れや」
白川女の天気予報はよく当たる。
昨日年配の白川女が言っていたとおり、今日はとてもよく晴れた。
街では路地の隙間から白い洗濯物が見え隠れする。
その代わりに風が強い。梅雨が終わったと思えばあっという間に夏が来たらしい。
駒は毎年、この時期の季節の移り変わりの早さに驚かされる。
砂塵が舞った。商家が撒く水も瞬きする間に乾いてしまうのだ。

「何をぼんやりしている?」
気がつくと、土方がすぐ側まで来ていた。
「…なんや皆、幻みたいやと思て」
立ち上った陽炎が、人の輪郭をゆらゆらと曖昧にする。
ここに立って見る人びとは皆一様に頼りなく、
一吹きで消えてなくなってしまいそうな質感を持っている。
そう告げると、土方はそんなこと考えたこともない、という顔で、
気難しげに腕を組んで駒と同じ方向を見た。
「ところで何故、こんなところで立っている?中に入らないのか」
「席がのうなったんどす」
今日は日和がよくて人々は咽喉が渇くのか、いつもの甘味処は満員御礼だった。
ここに着いたのは籐箕が空になってからだったので、
駒は特に急ぎもせず、ただ男がいつもやってくる通りを見ていたのだ。
幻の群れから、迷いの無い足取りでまっすぐ向かってくる土方の姿は、
物語で聞いた若武者のようで現実離れしていた。
土方は店の中を覗き込んで、本当だな、とため息をつく。
「ではどうす…う」
「わ…」
ひときわ強い風は吹いて、二人は言葉を切ってそれぞれ顔をかばった。
道を歩く人々からも薄い悲鳴があがる。
体全体に堅い砂が当たる感覚がして、風が体を抜けて向こう側に吹いていく。

「全く今日はひどい風だ…」
風が一段落すると、土方はそう呟いて着物に付着した砂を叩き落としながら、駒を見た。
すると駒は着物の袖でしきりに目を擦っていた。
「おい、どうした?」
「砂が…」
「入ったのか?擦っては駄目だ」
土方は駒の手首を取って、まじまじと目を覗き込む。
もう片方の手で下瞼を引っくり返す。
何を、と駒が問う暇もなく、熱い何かが眼球を拭っていった。
何が起こったのか咄嗟に理解できない。
唐突に異物感が無くなった瞼で瞬きを繰り返しながら視線を上げると、
土方が親指で自分の舌に付着した砂を取り除いていたところだった。
その関連性を推理して頭が真っ白になる。
「あの…もしかして」
「ん?」
「…!やっぱり言わんといてください。聞きとうないどす」
「顔が赤いが」
「びっくりしただけどす。おおきに。ありがとう」
「駒でもそんなに動揺することがあるのだな」
土方はさも可笑しそうに笑っている。
動揺なんて当たり前だ。親しい親兄弟ならまだしも、
若い男にこんなことをされて動揺しないほうがどうかしている。
比べて本当に気にもしていなさそうな土方の様子が悔しかった。
もっとも土方は年若い者の手当てをするのと同じことをしただけであって、
いちいち大げさに考えてしまうほうが妙なのだと、言われてしまえばその通りなのだけれど。

「さて、立ち話もなんだな。駒の目も覚めたことだし」
「最初っから目ぇは覚めとりやす」
「ぼんやりしていたじゃねぇか。何か落ち込んでいるのかと思ったが」
「それは…」
梅雨の間会えずにいたからだということを気づいてもいなさそうな人に、わざわざ告げるのも情けない。
「それで、うちの目ぇが覚めたから、どないするんどす」
「少し付き合ってもらう」
「へぇ。珍しおすなぁ」
「見せたいものがある」
そう言って歩き出した土方を、駒は内心驚いて見た。
この男が意識的に人が集まる場所で駒と並ばぬようにしているのを知っていたからだ。
夏の日は長い。
太陽が傾き始めるまで、もう少し時間がありそうだった。


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09. 四角い青 へ続く