3、怒


「ね、知ってます?」
一指し指を顔の前に立てた厳つい男の顔がぐいっと迫ってきた。
「…島田君、暑苦しいからあんまり近寄らないように」
手のひらを団扇代わりに扇いで気休めに風を送っていた総司は、
やれやれという風に顔を背けた。
「もう、沖田センセッ。そんな嫌そうな顔しないでくださいよぉ」
身をよじって悶えるのは妙齢の美女ではもちろんない。
「だって君しつこいんだもん」
そう言って追い払おうとするが、島田は座り込んで徹底抗戦の構え。
どうやら話を聞くまで開放してくれる気はないらしい。


元治1年。
夏の盛りの道場は熱気で陽炎が立ちそうなほどだ。
腕自慢の隊士たちが奇声を上げながら、稽古に励んでいた。
激しい足音と、怒声と、竹刀が鳴り合う音が響く。


「ああ、それにしても暑い」
総司は道場の開け放たれた戸の前で、後ろに両手をついて息をついた。
稽古を続ける隊士たちの邪魔にならないように二人は隅に寄っている。
先ほどから憎らしいくらいに風が吹かない。
じっと座っていると、滝のように汗が流れてくる。


「皆暑さに参ってますね。病人も結構出てるんでしょ?」
諸士調役兼監察の島田魁。
余り屯所には顔を出さない癖に、さすがに情報が早い。
事実、腹を下したり寝込んだりする者が後を絶たなかった。
「元気なのは土方副長と斉藤先生くらいだって皆噂してますよ。人間じゃないっすよ〜」
「確かにねぇ…」
土方が元気なのは隊士の手前、暑さに平気な顔をせねばという義務感からだろうが、
斉藤は夏だろうが冬だろうが気温などで影響を受けない様子だ。
斉藤は一匹狼の他人の侵入を許さぬ緊張感のある男で、
慣れればあれはあれでひょうきんなところもあるのだが、一見不気味といえるかもしれない。


「噂ですけどね」
島田がにじり寄ってくる。
悪い男ではないのだが、いかんせん噂好き過ぎる。
監察は彼と天職といえるだろう。土方の人を見る目は確かということか。


「件の斉藤先生、子供の頃近所の悪がきに度胸試しをさせられたらしくて」
「ふーん」
とっておきの内緒話を披露するが如く、口元に手を当てる。さりげなくその小指が立っている。
「井戸に飛び込んだんですって」
「…まさかぁ」
思わず総司が口にする。
「ホ・ン・トですってば!」
下がり気味の眉がますます下がって、島田は力説する。
「でもいざ落とされたら、他の餓鬼どもがびびって逃げたらしくて、
斉藤先生は自力で井戸から這い上がって生還したんですって」
「んな馬鹿な」
井戸に落ちて無事でいられるわけがない。
「でも想像してみてくださいよぉ。
井戸からぬっと顔を出す斉藤先生を。あの斉藤先生ですよぉ」
「………」
総司は想像してみた。
髪を振り乱して斉藤が行きも絶え絶えに井戸から…。
怖い。
ああ見えて気性の激しい彼がその後
逃げた友人たちにどう仕返ししたのか考えるだけでも怖い。


「どこで仕入れてくるんですか、そんな情報」
慌てて頭を振って恐怖映像を追い払い、総司が尋ねると
島田はにやーっと気味の悪い笑みを浮かべた。
「ふふふ。監察の特権です」
それは職権乱用では。
「でもあなた今すごく忙しいでしょう」
四月に捕縛した浪士が自白した情報によると、入京を禁じられている長州藩士たちが
二百人近く京都に入り込んでいるらしい。現在監察方は慎重な探索を命じられている。
こんなところで油を売っている暇はないはずだが。
「息抜きですよっ、息抜き」

…自分相手に噂話をするのが、彼の息抜きなのだろうか。

「あなたの情報は胡散臭いんです。
この間も蝉を食べたら声が良くなるとか源さんに言ったでしょう」
ねめつけるように見ると、島田は爽快に答える。
「ああ、あれは奥羽出身の隊士に聞いたんです。
地方には色んな言い伝えがあって面白いですよね」
「駄目ですよ、源さんは信じちゃうんだから」


突きが遅い!と土方の怒鳴っているのが聞こえる。
訓練に夢中で幸いこの会話の内容は聞かれていないらしい。
こんな下らない世間話をしていると知れたら、
青筋を立てて殴り倒されること必至だ。
最も島田は要領良く逃げ出して、殴られるのは総司だけだろうが。


「でね、ここからが本題なんですけどね」
島田は声を低くする。総司は思わず身を乗り出した。
こうやってついつい話を聞いてしまうから、
島田は総司に懐いてしまったのかもしれない。
「土方副長、腎虚になったらしいですよぉぉ」
「は?」
思いも寄らなかった言葉だったので聞き返してしまった。
「最後に赤い玉が出たんですって。ああ男として同情を禁じえません。かわいそうに。
やっぱり若い頃から遊び過ぎたんでしょうかねぇ」
「…それ絶対デマだから。広めないように。
殺されても知りませんよ。どうせ隊士が嫌がらせで流したんでしょう」
「えええ。何で分かるんです?」
総司はため息をつきながら、首筋を叩いてみせる。
「赤い痕がついてる」
え、と島田は土方を仰ぎ見る。
土方の稽古着の首元は不自然などきっちり締められている。
「大方女性に吸われたんでしょう。
堂々としてりゃいいのに、必死で隠してるところが土方さんらしいけど」
それにしても腎虚とは。
土方にとってこれほどの不名誉はないだろう。
面白いことを聞いた。これからからかう時のネタにしよう。
「仕合ってみてはいかがです?首元が見えるから、はっきりしますよ」
「なんだぁ。良いネタ仕入れたと思ったのに」
鬼の首を取ったつもりだったのか残念そうな島田を見て、総司は極上の笑顔を浮かべた。


「土方さぁん!」
手ぬぐいで汗を拭いていた土方を呼んだ総司に、
ぎょっと島田は体を強張らす。
「…何だ」
不機嫌な顔で土方がやってくる。
島田は硬直したまま動かない。
「島田くんが、面白い情報を仕入れたらしいですよ」
「…ほう」
「沖田先生ぇ」
島田が泣きそうな声を上げた。
沖田は童子のように微笑んだまま、爆弾を投げる。
「土方さんが腎虚って本当ですか?」

瞬間凍りついた土方の拳が振り落とされるまで数秒を要す。


後日談。
総司が公衆の面前で発言したせいで、根も葉もない噂は一掃されたが、
土方さんは数日間口をきいてくれなかった。







補足・江戸時代、精液は腎臓で作られると考えられていた。
    下らないネタですいません〜。