題十一話「闇に沁みる雨」
雨が地面に染み入る微かな音がしている。
そう感覚が認めたのと、目覚めたのと、どちらが先だったか。
何か夢を見ていた気もするが、意識した途端それはすり抜けるように
遠のいていった。目蓋がひどく重い。身じろぎをした。
「…土方副長?」
総司か、そう掠れた声で呟くと、
「残念ですけど、違います」
と、躊躇いがちな返事が返ってきた。やっと目を開いて、その人物を認めた。
「斉藤か…」
滅多に心を映さないその面に、一つの感情が宿っている。
「お前と総司を間違えるなんて、俺も仕舞いだな」
「冗談でもそのようなことをおっしゃらないでください」
鉄砲で撃ちぬかれた足がドクドクと脈打っている。
「ひどい顔色だ」
「ご自分のことですか」
いや、お前の顔だ、と土方は答える。
斉藤は不満げに眉を寄せて、掌で自分の頬を撫でた。
その姿が滑稽で土方は青白い顔に虚ろな笑みを浮かべる。
斉藤はため息をついた。
「仕様のない人だ…本当に…」
だが、宇都宮の敗戦の後ですら挫かれない土方の負けん気に安堵もしている。
「もう少し、眠ってください。夜明けまでまだ間がありますから」
額の布を代え、立ち上がる。
京都時代、土方の看病をしたことのある隊士はおそらく一人だけだったろうと思う。
勿論斉藤ではない。誰かが側にいなければ寂しいくせに、人に弱っているところを見られるのがいやなのだ。
沖田は気難しい土方の看病に、世話を焼いたことだろう。だがその沖田はもういない。
本当に親しいものにしか弱みを見せなかったこの人の、
今一番近いところに自分がいると思う。
それは誇らしくもあったけども、同時に土方が多くの親しいものを失くしたという事実を表しているのだ。
「…夢をみた」
襖を開けて部屋から出ようとしたとき、土方が微かに囁いた。斉藤は振り返る。
「…どんな?」
聞いてもいいのだろうかと少し迷った後、斉藤は聞き返した。
しかし返事はない。やがて斉藤は静かに部屋を出て襖を閉めた。
一人残った土方は目を瞑る。
それは初夏の夢だ。一面の草原の。
抜けるような青空に、木々の煌きが眩しい。自分は多摩の自然をこんなにも愛していた。
ああ、自分は怪我をして、少し感傷的になっている。それだけなのだ。
本を閉じるようにパタン、と消えていった風景が、人々が、夢の中に広がっている。
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第十二話「差し向かいで飲む午後のお茶」
「春、お茶を入れてくれないか」
斉藤がそういうと、春は何をしていても中断してお茶を入れに行く。
今も春は洗濯物を取り入れていた手を止めて、縁側から居間に上がった。
斉藤は寛いだ浴衣姿で日の当たらない部分で団扇を扇いでいた。
目の前を通過して厨に向かうと、斉藤も立ち上がって付いてくる。
またか、と春はひそかに笑う。
最近の斉藤は妙にお茶に興味を持っている。
料理を食べてもおいしいというわけでもなし、休みといえば刀を手入れしたり爪を切ったりするだけで、
無趣味な人だと思っていたのに、何に興味を示すか分からないものだ。
斉藤はわざわざ厨の近くまで来て、春が茶を入れる音を聞いているのだから。
視線を感じる。
茶碗と急須を暖めておいた湯を湯こぼしに捨てる手を、
湯冷ましに入れて適温になった湯を急須に注ぎ込む手を、斉藤はじっと見ている。
陶器が触れ合う小さな音を静かに聴いている。
毎日繰り返していることだから、考えなくても体は動くはずなのに、
斉藤に見られていると緊張してしまう。
春は緊張を和らげるためにわざわざ聞くまでもないことを話しかける。
「甘めですね」
「そうだ」
斉藤は即答した。
煎茶は普通熱湯で入れるものだが、低温で入れると甘みを出す。
斉藤は甘めのお茶が好きなのだ。甘い菓子は嫌いなのに。
少し茶碗に注いで色を見ると、綺麗な緑色だった。
そのまま、最後の一滴まで静かに注ぐ。こぽこぽと小気味良い音。
茶碗を置くと、斉藤の目が幸福そうに細められた。
薄く上がる湯気、手に触れた茶碗は暖かく、目に優しい緑色は心を落ち着かせる。
「春の入れた茶は全然味が違うな」
「そう?」
「ああ、茶は茶なのに不思議だ」
聞きなれた音がする。無駄のない、茶を入れる音。
畳の上のあるく音。ふすまを開ける時一度に開けず、二度に分けて開閉する抑揚のある音。
春の立てる音が心地よいから、斉藤は耳を傾ける。
慣れたこの味でなければ、と思うようになったのはいつからだろう。
「私が入れるからですよ」
「ん?」
斉藤が顔を向けると、春はまっすぐこちらを見ていた。
最近春はこんな風に自分を見る。ためらいなくまっすぐに。
自分も変わったかもしれないが、春も変わったと斉藤は思う。
「お茶は丁寧に入れると、とってもおいしいんです」
「…それだけか?何か仕掛けがあるのかと思って見ていたが、違うのか」
春は笑う。
あなただからですよ。
弦を爪弾くような声でぽろりと春の声が響く。
あなただだから、私はただ一生懸命お茶を入れるんです。
そうか、と斉藤は頷いた。おいしいお茶の秘訣はとても簡単なことだったのだ。
「熱いでしょう。冷ましますか」
「いや。これでいい」
両手に支えられた茶碗から湯気がゆっくりと上がり、午後の時間が軽やかに過ぎていく。
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第十三話「隠された恋文」
その人が珍しく低い位置にいなかったら、たぶんずっと気づかなかっただろう。
「山南さん?」
渡り廊下を通り過ぎようとしていた総司は、あらぬ場所にあらぬ人の姿を見つけて思わず声をかけていた。
「ああ、総司か」
山南が背中で答える。
相変わらず庭の植木の下にかがみ込んで熱心に何かを見ている。
総司は庭履きを見つけると、それを履いて庭に降り立った。
「どうしましたか?」
冷たく鳴り出した夕方の風が吹いている。
総司は袷の着物を書き合わせるように腕を組みながら、早足で山南の背中に近づいた。
隊士が何か粗相でもしたのか、それとも具合が悪いのだろうのか、
不安になった総司の声は深刻な響きを帯びる。
「いや。たいしたことじゃないんだ」
しかしながら返ってきた山南の声は明るかった。
やっと振り返ったその手にはただの赤い落ち葉が握られている。
総司の視線を察してか、山南は照れくさそうに笑った。
「文にはさもうと思ってね」
「ああ、文に…」
それはとても山南らしい趣向に思えた。
その葉は、確かにところどころ赤く色落ちた様子が絵に描いたような紅葉だ。
山南が見ていた場所をかがみ込んで覗くと、その低木の元には確かに上から落ちた紅葉が、
人に踏み荒らされない綺麗な形で残っていた。
頭上からかすかな芳香。金木犀が花を付けているのだ。
「すっかり秋ですね」
誰に送るのかとも聞けず、そんな当たり前のことを口にする。
閑職へと移動になった山南は、最近庭を散歩しているのをよく見かけた。
散歩をするうちに落ち葉の隠れ場所を見つけたのだろうか。
隊内では暗なる罷免だとか身も蓋もないことをいう輩がいるけれど、
山南はこんな風に自分の調子を崩さずに生活しているだと知って、僅かに安堵を覚えた。
「さてと」
景気づけに声を上げて、総司は膝を伸ばす。
「戻りませんか。夕餉の時間だから、腹を空かせた副長が不機嫌で仕方ない」
「犬畜生みたいな言い方をするんじゃないよ」
山南が含み笑いをしながら立ち上がろうとする。その後姿を見ていて気がついた。
「あれ?山南さん、ちょっと動かないでください」
「お」
山南は不安定な体制のまま固まった。
笑いながら総司は山南の髪に手を伸ばす。
「すみません。金木犀の花が…」
そしてふと、山南の元結に目が留まる。真白のはずの元結の部分部分に滲む、墨色の。
「取れたかな」
「ああ、すみません。取れました」
ありがとう、と山南は立ち上がる。
そこで初めて総司はそのことを聞いた。満面の笑みを浮かべる。
「ねぇ、どなたに文を送られるんですか?」
山南は一瞬絶句した。
「…嫌な笑みだな」
「山南さんの想い人は幸せですね」
「何を言ってるだ」
風に押されるように慌てて立ち去ろうとする、純朴な背中を追いかける。
「山南さんてばー」
だって気づいてしまったんだから。
元結にかすかに滲むのは墨の文字。
肌身離さず持ち歩きたいと思われたその。
愛情故に元結にされた恋文の、相手と山南が幸せにと願うくらいは、
許されるはずだから。
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第十四話「振り返るは愚行」
誰かがくしゃみをする音がして、左之助は顔を上げた。
空気が振動する。息をつめて隠れていた人形の集団が身じろぎして、
つかの間正気の人間に戻ったかのような動揺が現れた。
おい、と伍長が注意をしている。静かにしろ、気づかれるではないか、と。
その声も可能な限りの小声だったが、あたりは異様なほど静まり返っていたので、
まるで隣にいるかのように響いてきた。
そうは言ってもくしゃみを出るのは止めようもなかろうに。
からかいを入れる気にはとてもなれず左之助はただうな垂れた。
ひどく寒い。
足元から這い上がってくる冷気が、体温を奪いつくしている。
唇から漏れる息も、もはや白くならない。
雲が翳っていて、月すら出ていなかった。
雨が降るようだ。湿気を含んだ空気が体に纏わりついて、
衣服を重くさせている。それとも雪か。
ひどく、寒い。
近くにいるはずの永倉も、気配すら表さず押し黙っている。
まるで彫刻になってしまったかのようだった。
本当に、このまま固まってしまえばいい。
「左之」
すぐ耳元で永倉が囁いて、左之助は身を震わせた。
「俺さ」
「うん」
「俺に出来るかなって、ずっと考えてた。その時が来たら、俺に平助が」
一瞬の間。
「斬れるかなって」
左之助は下を向いたまま、ゆっくり瞬きをした。
「でもな。たぶん出来るんだ。目の前に来てしまったら、俺は平助を斬るだろう。
どうしてかな。なんでこうなっちゃったんだろうな。俺が、俺が、平助を斬るんだぜ」
「ぱっちゃん。静かに。聞こえる」
「ごめん」
「うん」
永倉が震えている。左之助は柄を握る指に力を込めて、丹田に意識を込める。
体内では色んな言葉がめぐるのに、一つも唇を突いて出てこなかった。
本当に、何故こんなことになってしまったのだろう。
自分たちは今、友を殺すためにここで待っているのだ。
二人、木戸に寄りかかったまま、呼吸を整えた。
通りの向こうからは、何者の気配もない。
死体が一つあるだけだ。
このまま、誰も来なければいいと願いながら、左之助は彼らが必ず来るということを知っていた。
それが、武士だろう。そしてそれが、平助だ。
「ぱっちゃん俺」
言葉はため息のように落ちた。震えてはいなかった。
ただ絶望とも諦めとも取れない空虚な思いが満ちていた。
逃げようとすれば逃げられるのに、誰も逃げ出しはしないのだ。
俺も永倉も、平助も。誰も。誰も彼も馬鹿だ。
「もう真っ平だ、こんな長い夜」
きちんと言葉になったか自信はなかったけれど、
口を閉ざしたままの永倉が頷いた気配がした。
二人、また彫刻に戻り、意識を絶った。
当分、酒も眠りも食事も欲しくない。
夜明けはまだ遠い。
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第十五話「黎明に似た」
自分の死よりも怖いものがある。
自分の死のほうが怖いのならば、とっくにこんな仕事やめている。
「御用改めである」
もう何度も口にした台詞を、扉を開けがしら唱えた途端、乱闘になった。
毎日ではないが、珍しくもない。
体は勝手に反応し、振り下ろされた白刃を受け止めて流し、
その力の流れを持って反撃する。
鮮やかに肉を裁った感触がした。左にまた別の敵。
無になれ、と言った周斎の言葉を最近思い出す。
頭で手順を辿るのではない、無になれと。
沖田には今その意味が分かる。命のやり取りをするとき、意識は邪魔になり、
いつも体の外に追いやられる。
きっと今の自分は、今夜一緒に踏み込んだあの斉藤と、
同じように無機質な顔をしていることだろう。
ふと右後ろに居た斉藤が息を呑んだ気配を感じ、途端沖田は思考を取り戻す。
「斉藤さん?!」
目の前にいた敵を切り伏せて、斉藤に駆け寄った。
戸口からの明朝の光に縁取られた斉藤が、手を顔にやっているのが見えた。
「怪我を…」
「なんでもない」
口早に斉藤は言い、刀を鞘に納めた。
「傷を見せてください」
「騒ぐな。頬を掠っただけだ」
斉藤の声音は落ち着いていた。
沖田がほっと息を吐くと、斉藤の怪訝な顔が向けられた。
「なぜ、そんなに動揺するのだ?俺如きの怪我で心を乱すな。
動揺は隙を生み、己の命を晒すことになるのを知らぬそなたではあるまい」
自分が斬り捨てた男たちの、むせ返る様な血の匂いの中で、
一人の男の掠り傷を心配している沖田が、ひどく奇妙な生き物に見えた。
「やめてくださいよ」
沖田は明るく笑いながら言う。
「私、斉藤さんのこと好きなのだから」
出会って間もない人間を、好きと言ってしまえる沖田の心理を、
まだ斉藤は読めないでいる。
鬼人と化す戦闘中と、今の沖田との差異も。
お前が殺したその男たちと自分には、違いなどありはしないのに、
何故こうまでも残酷で、優しくなれるのだろう。
この男はどうやって命の優劣をつけているか。
気味の悪いやつだと、ただそう思って横目で睨んだ。
沖田は涼しい顔をして、気負いのない足取りで斉藤に近寄ってきた。
先ほど敵の顔を踏みつけたその足は、今は斉藤に向かって緩やかに動いている。
自分の死よりも怖いものがある。
大切な人が無事であるように願いながら、ただひたすらに剣は振るわれる。
斉藤にそんな思考が思いもよらなかった頃。
まだ、京に来て間もない頃の話だ。
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