題六話「夜の番人」
堕ちる。
覚醒は落下と同時にやってきた。
「………!」
まるで階段を踏み外したかのようなあの感触がきて、びくりと体を震わせる。
無意識のうちに手が何かを縋るように動いたのは一瞬だ。
目を見開くと濃い闇が間近にあった。やがてじわじわと目の中に光が入ってくる。
揺蕩っているのは松明の灯りだった。ああここは現実だ。そう気づき、左之助は深々と息をついた。
「…寝てただろう」
密やかな声がして左之助はひやりとする。
目が覚めてしまったのはこの人の気配だったのだ。
「寝てねぇよ」
「嘘つけ」
土方が無防備な裸足のまま床の板を踏んで側に来る。
一番見られたくない人に居眠りしているところを見つかってしまった。
「お前が見張りをする必要なんてないんだ。何故こんな無駄なことをする」
言う土方は怪訝そうだった。左之助は視線をはずしたままさらっと答える。
「無駄じゃねぇもん」
「無駄だろう。寝てたんじゃ」
「今のはちょっと気が抜けただけだってば。大丈夫、旦那こそ寝てろって」
「強情だな…」
ため息をつきながら言われても左之助には全然答えない。
「お互い様だろ」
池田屋から数日。いつ敵襲を受けるとも限らない屯所は物々しい警備体制に置かれていた。
この庭を越えた先の門にも正規の任務を受けた見張りの隊士が寝ずの番をしていることは知っている。
それでもなんだか不安なのだ。傷を受けて寝ているのは総司に平助に新八に、自分の大切な者達ばかり。
初めて見た血を流し顔を青ざめさせた友の姿は、左之助を落ち着かなくさせた。
普段なら自分の身一つくらい眉一つ動かさず守れる連中だから、
こんな気持ちになったことなどなかったけれど。
「…いつまで続ける気だ」
「さぁ。俺の気がすむまで」
ここのところ左之助は深夜になるとここに来て、一人空を見つめていた。
友の目が閉じられている間は自分が代わりにその闇を見据えたいのだ。
「これ以上動けなくなる者が増えても困ると言っているんだ」
「はいはい。昼間に暇を見つけて睡眠は小出しにとってるから心配すんなよ」
心配、という言葉に土方はカチンときたらしい。
お前は筋金入りの馬鹿だ、と言い捨てて踵を返し、彼は自室に戻って行った。
ああ静かになった。左之助は笑う。
しばらくして湯飲みに入った白湯が届けられた。
誰に頼まれたかなんて届けた隊士に聞かなくても分かる。
それを啜っていると目が覚めてきたので、やれやれと座りなおした。
まだ夜明けは遠い。微かに松明がはぜる音。
肩に寄りかからせてあった槍の柄をゆるく握ると冷たい感触がして決意が新たになった。
何者であってもここを通させはしないから。穏やかな休養を友に。
本当はこうして夜中に起きてくる土方だって、自分と同じ危惧を抱いていると、
口には出さないけど気づいているのだ。
紺が染み往くように音も無く、夏の夜が深けて行く。
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題七話「超える刻」
そろそろ闇が下りてくる時間だ。
障子には落陽の残像が橙色に滲んでいる。
部屋は静かだった。大晦日で、隊士の多くが屯所を出ているせいだ。
近藤や永倉や原田や、自宅を持つものは当然そちらに帰っていたし、
当番以外、外泊が咎められないとくれば、他の幹部も隊士たちも、
どこかの行きつけに消えている時間帯。
土方にとっては、書類に集中するには打って付けだ、ぐらいの感覚しかない。
皆のように特別な存在の者もいないし、いたとしても一緒に過ごそうとは思わない。
大晦日も元旦も、人が定めた区切りにしか過ぎないのだから。
それよりも一時の空白の時間のほうがありがたかった。
断続的に、小さく甲高い音がしている。
長火鉢に掛けられた湯沸しが沸騰している音だった。
その口から立ち昇る湯気が、空気を柔らかなものに変えている。
ふと手元に灯りが差した。
帳簿を読んでいた土方の手元の淡い影が拭い去られる。
数刻ぶりに顔を上げると、灯されたばかりの燭台が近くに置かれたところだった。
目が合うと、総司は屈みこんだ身を起こしながら軽く微笑み、
何も言わず先ほどまでいた位置まで戻っていった。
何の気負いも躊躇いもない、自然な行動。
総司はそのまま行儀悪く寝転がる。
どこから見てもくつろいだ様子だった。その指先が床に散在している紙をめくる。
ぱらり、と微かな音。
そういえば総司が部屋にいたのだ、と土方は唐突に思い当たった。
入ってきてから、全く会話をかわしていなかったから、その存在を忘れかけていた。
人の気配に聡い土方には珍しいことだ。
ぱたん、と音を立てて帳簿を閉じると総司の目がこちらに向いた。
「…何を散らかしてるんだ」
今更、という風に総司が笑む。
「年賀状をね、書こうと思って」
「年賀状を書くだけでそんなに散らかるのか」
「だって書く前に去年貰ったのを見ておきたくなるじゃないですか。
そうすると懐かしくてつい読み込んでしまって。
ほら見て、彦五郎さんの下手な酉の絵」
それは去年皆で不恰好だ、これはひどいと散々笑ったもので、見た途端反射的に土方も笑ってしまった。
慌てて取り成すように咳をする。
「丁度良い、俺の分も書いてくれ」
「えー。人に書いてもらった年賀状って価値あります?」
そういえば、一つ前の年末は誰と一緒にいただろう。
近藤はいたし、山南や藤堂や永倉や…試衛館の面々はだいたいいた気がする。
年が明ける時は全員で酒盛りをして、ぐだぐだになって何時のまにか朝というのがいつもの習慣だった。
時は移ろうものだ。皆は所帯を持ち、それぞれの居場所を抱えている。
「一年が終わりますね」
誰に問うでもなく総司が呟いた言葉に、土方は訂正をする。
「まだ三刻ほど早い」
「なぁんだ、分かってるじゃないですか」
さも可笑しそうに総司は笑う。
火鉢の炭が尽きそうになっていたので、新しい炭を足す。
ついでに煙管を取り出して火をつけた。
緩く紫煙が舞う。
眠気を誘う室内の空気。炭のはぜる音がする。
総司がやっと筆を取って思案し始めた。書き終わる頃には、年を越えていることだろう。
こんな大晦日が、あと何度繰り返されるのだろう。
「来年も宜しくお願いしますね」
ひっそりと聞こえてきた言葉に、こちらこそ、なんて返事は絶対しない。
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題八話「桜の下であなたを待つ」
今年はどこの桜を見に行く?
春になると自然とそんな会話があちこちで交わされる。
京都には名所と呼ばれる地がたくさんある。
それは桜だったり紅葉だったり、雪だったり滝だったり、
季節によって見るものは違うが、明里の郷里にはないものばかりだった。
見るべき場所がないと言う意味ではない。
自然の有り無しで言えば京よりよほど多い田舎なのだから。
郷里になかったのは、季節ごとに自然を愛でる心と懐の余裕だった。
今年はどこの桜を見に行く?
京の人々の、その余裕が眩しい。
人々の群れが目の前を通過していく。
皆一様に上を眺めて歓声をあげている。
桜が満開の見ごろなのだ。
名所があるということは、人が集まるということで、
夜桜を楽しもうと近隣から集まった人々の
それぞれの笑顔が篝火で照らし出されている。
それらを見ているだけで華やいだ気持ちになった。
待ち人はまだ来ない。
一人道端でぽつりと立つ普段着の島原の天神に、
通り行く人は誰も気がついていないようだった。
約束した時間から半時が経過している。
待つのは苦にならなかった。
大方仕事を抜けられなくなってしまったのだろう。
組織に入れば自分の力ではどうにでもならないことが出来てくると、明里も充分知っている。
季節ごとの行事を楽しむのは、京に来てから覚えた習慣で、
それがあると日々を過ごすのがとても楽しく感じられた。
今年はどこの桜を見に行く?
山南がそう誘ってくれたのが嬉しかった。
あの桜が咲いたら一緒に出かけるのだと、二階から身を乗り出して通りの桜の蕾を眺めた。
量より味より見た目に贅を凝らされたお菓子。
散歩の途中で山南が買ってくれた小さな根付。
見て楽しむだけの桜。
なんでもないこと、生きていくには必要ないことが、
生活に彩りを与えてくれている。
無駄なこととはなんだろう。
こうして誰かを待つ時間も、人によっては無駄なものなのだろう。
花を眺める暇があれば田を耕し働けと叱咤した母を思い出す。
気持ち次第心持ち次第で、目に映るものの印象はこんなにも変わってしまう。
時刻を知らせる鐘が鳴って、思わず上を向くと花弁が降っていた。
目を細めながら、待つという無駄な時間を消費する。
永遠のようで、永遠にありえない時間。
見ようとしなければ、見えなくなってしまう余暇。小さなもの。笑顔。
その美しさを忘れないでいたい。
世界が変わっていったとしても、
あの人が思い出す私は変わらないものであるように。
たった一時でもいい。息をつける場所であるように。
例えばあなたが疲れ果てて下しか見えなくなっても。
世の中のことがすべて嫌になる日が来るとしても。
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題九話「命よ芽吹け」
頭上に丸く一面の蒼穹が広がっている。
鼻先をくすぐる草花に、豊潤な緑の香りを感じる。
閉じた瞼からも、辺りに光が満ちていることが分かり総司は幸福な気分になる。
長く尾を引く鳥の啼き声がする。緑が擦りあって風の存在を知らせる音を立てる。
背中に当たっている大地が暖かい。
草原で寝転びながら、総司はまどろみの中にいる。
ついこの間まで身を寄せていた喧騒をひどく遠く感じ、
世界が自分達を許しているのだ、と何故かそんなことを思う。
草を踏み分ける音がして、一つの気配が近くまでやってきた。
目を開けぬまま、総司は小さく笑う。
「呆れた無防備さだ」
頭上から落ちてきた声はひどく不機嫌そうだった。
「俺が刺客だったらお前は真っ二つだな」
「そうですねー」
否定せずにそのまま明るく肯定すると、土方がますます眉を寄せる気配がした。
総司は笑いながら、掌でひさしを作って軽く薄目を開ける。
見慣れた仏頂面が、太陽の光線に縁取られて、仕事の時そのままの状態でそこにある。
「今なら斬られてもいいかなーなんて」
「総…」
「冗談です」
怒声が飛ぶ前に総司は釘を刺す。そこまで自分に対しても仲間に対しても無責任なわけではない。
「土方さんも横になったらどうです?気持ち良いですよ」
「冗談だろ」
「いえ本気ですけどね」
いつ果てぬとも知れぬ命を抱えて生きている。
楽しんでおけるうちに楽しんでおこうと思うのは、至極当然のことだと総司は思う。
その中でも、思考が女に向き、自らが生きた証を残そうと思う者もいれば、
ただ淡々と近しい周りのものに目を向ける者もいる。自分は後者であるだけだ。
「悠長だな」
「だって時間はあるじゃないですか」
総司がそういうと、土方が戸惑ったのが分かった。この日とはいつも通りに自分に接しようとしているのだろうけど、
そうしきれないのが彼らしい。構わずに「ね?」と声をかけ、土方の手を無理やり引っ張って座らせた。
本当は、時間なんて無いのだ。土方にも自分にも。
ただ、そんなに必死にならなくてもいいのだと、最後に土方に伝えたかった。
自らの策で法度で、死んでいったものたちの手向けのために、一秒を急くように生きている土方に。
世の中を変えるため、流れの方向を変えるため、築いても築いても崩し流される土塁を土方は作り続けている。
荒らされる国土を自分の手で守り抜こうと誓った者が、
救いたいと傲慢で純粋な願いを抱いた者が、
背負っている物はどれほどの重さだろう。
あなたばかりが、負わなくてもいいのだと、伝えたかった。
細く衰えた自分の手足が大地に委ねられている。
寝転ぶ自分の横に座った土方が大きく深呼吸をして清涼な空気を吸い込む。
その瞬間、総司は思わず自分の呼吸を止める。
無駄かもしれないが、側にいることでこの病をうつしてしまわぬように。
刀も握れなくなり、ただ生きながらえている自分に出来ることは、一体何なのだろう。
沈黙が心地よく、すぐ近くにある仲間の生きている気配が心地よい。
総司は再び目を瞑り、意識を飛ばす。
自分はこの大地で朽ち果てても、
遠くへ行く土方が幸福で、自らのために生きていけるなら、それだけでいい。
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題十話「命よ芽吹け2」
(注:第九話と対になっています)
眼下になだらかな斜線を描いて一面の平野が広がっている。
桜の季節が過ぎた頃の草木の緑色は強烈なくらい鮮やかだ。
誰のものでもない土地の、誰も省みなくなった雑草だらけの大地で、
土方は目指す人物の白い着物の端を見つけた。
どうしてあんなところで惰眠を貪っているのか。
屋敷を訪ねたら布団はもぬけの殻で、主人も下女の老女も知らぬと言う。
肌身離さなかった愛刀でさえ置き去りで、これは何かあったのではないかと青くなって
探していた自分の誠意をどう思っているのだろうかこの餓鬼は。
例えば自分が追跡者で、刀を振り下ろせば避けることも出来ないと思われる
位置まで来てようやく、総司は目を開けてこちらを見た。
「呆れた無防備さだ」
昔から、嫌味など効きはしない青年は笑顔を向ける。
通じないなら言わなければいいのに、つい口は皮肉を言うために動いてしまうのだ。
「俺が刺客だったらお前は真っ二つだな」
「そうですねー」
薄目を開けた総司とやっと目が合って、
ああ、痩せたな、と罪悪感を感じてしまう。
本当は罪の意識など感じる必要はなく、それは誰の責任でもないと分かっているのだが、
道理と感情は常に別の場所にある。だからこんなところまでたどり着いてしまったというのに。
「今なら斬られてもいいかなーなんて」
風に吹かれながら、青年は穏やかでないことを口走る。
その言葉に苦いものが口元まで込みあがってくることを感じた。
「総…」
「冗談です」
思わずため息が出た。
いつもの他愛も無い会話に自らの感情の起伏がついていかない。
こうやって自分をからかう人物が、周りにいなくなっていたのだと気づく。
「土方さんも横になったらどうです?気持ち良いですよ」
「冗談だろ」
最後に、大地に寝転がったのはいつのことだったか。
遠い昔のような気がしてならず、そんな自分が想像できない。
調子を取り戻しかけた土方が応じると、総司はまた軽口で返す。
「いえ本気ですけどね」
「悠長だな」
言ってはっとする。なんと残酷な物言いだろう。
「だって時間はあるじゃないですか」
ね?と見上げてくる総司の返事に窮して、土方はせり上がってくる言葉を飲み込んだ。
だって、お前はもうすぐ死ぬのだろう?
冷えた手が自分の掌を掴んで、ゆっくりと引く。
強い力ではなかったのに、誘われるままに土方は腰を下ろした。
太陽の照り付けで、想像していたより大地は肌に暖かい。
無意識のうちに土方は息を吸い込んで、吐いていた。
体から抜けていく、と感じたのは空気ばかりでなく。
抜いてはならないものが、自分の中には降り積もっているというのに、
意に反して思考は緩やかに解き放たれていく。
閉じた瞼の裏に光の洪水。
沈黙が心地よく、すぐ近くにある仲間の生きている気配が心地よかった。
死ぬな、と無神経に発したくなる。
どうして病など得たのだ絶対についていくと言ったのは誰だ常にあった愛刀を何故お前は手放したのだ何故。
体の奥から、湧き上がってくる情動に押しつぶされそうだ。
風が鳴って、悲鳴のような声をあげた。
どうしても言えない一言がある。
もう一人の自分はそれを喚いて餓鬼のように地団太を踏みたいのだ。
ただ一言。
死ぬな誰も死ぬな、と。
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