09.狂



「所詮、それは偽善なんだ」
放った言葉は想像よりもずっと鋭利な刃物となった。
以前の田中ならその冷ややかさに我ながらぎょっとして口をつぐんでいただろう。
しかし今はもう口が滑り出すのが止められない。
驚いたような、無防備なその人の表情を見ていると、
何もかも壊してしまいたい衝動に駆られて、いつの間にか田中は大声で叫んでいた。


「明日には切腹だというのに、傷の手当てをしてどうなるというのです?
沖田先生はあなたは優しい人ですねと言われたいだけなんだ」
そして吐き捨てるように言う。
「偽善者め」
沖田の顔から微笑みは流れるように消えて、波のない大海のような目が向けられた。
更に田中の激情を煽る、その表情。


きっかけは、沖田の何気ない一言だったのだ。
「包帯を代えましょうか」
と、穏やかに言われた一言。
脱走した田中を捕縛する際に斬りつけたのは彼自身であったはずなのに、
まるでそのことも田中のこれからの運命も忘れてしまったかのような顔で、
矛盾を口にしたその無神経な笑顔。
隊を脱するを許さず。
反すれば切腹。
今まで脱走しようとして失敗し同じ運命を辿ってきた仲間を幾人も見ているから、
捕まった時点で覚悟は出来ているはずだった。
武士として取り乱すのは情けないことであるのも分かっていた。
震える思いで平静を装って、その決定を聞き入れたのだ。
しかし沖田の一言で、細糸一本で保っていた田中の平常心が切れる音が、
ぶちりと内部で聞こえたような気がした。
血が上った頭に洪水のようにぐるぐる回る、
沖田の、沖田の、笑顔、笑顔。


「その場で斬り殺されず切腹させていただけることに礼を言えとでも言うのか。
ああ、礼を言うとも。あなたがその鮮やかな剣技で痛みもなく往生させてくれるのだろう?」
唇を歪めた皮肉な笑みが浮く。
瞬きをした沖田がゆっくりと顔を上げた。
「あなたが望むのなら」
欠片の動揺も感じさせない落ち着いた声。
「私が介錯致しましょう」
「ふざけるな!」
「…田中っ」
気色ばんで詰め寄ると、障子の向こうに控えていた隊士が諌めに入った。
かつては友と呼んだその隊士は今はご丁寧に監視役に配置されている。
-----田中、もうやめろ、いくらなんでも沖田先生に失礼だぞ、
    お前はあんなに先生を慕っていたじゃないか。
痛ましいものを見るような、目、目、目。


「そんな目で俺を見るな!」
頭を抱えて座り込んだ。
体の血潮が逆流している。
無性に悲しい。これから死んでいくことが怖くて堪らない。
何故こんなことになったのか分からない。
ただ自分は失敗したのだという思いが指先まで満ちて、
体の底から冷えていく気がした。


すらりと衣擦れの音がした。
「----沖田先生」
仲間が呼び止める声がする。
「私は居ないほうが良さそうですから」
田中は涙で濡れた顔を上げた。


「沖田せんせい…」
やはり沖田は微笑んでいた。
壊してしまいたいと思ったのは、誰よりも憧れていて眩しかったから。


「後でまた来ますから」
まるで幼子に言い聞かす母のように。
障子を開けて、気づいたように振り返った。
「今夜の月は綺麗ですよ。障子を少し開けておきましょうか」


そして静かに彼は去って行った。
残していったのは微笑で。
見下ろしているのは平穏ないつもどおりの月。


「脱走者の部屋の戸を開けていくなんて…馬鹿じゃないか」
月光に照らされて、後は嗚咽で声にならなかった。