人目を避けて、嘘をつきながら、逃げるように江戸に向かった。
大切な預かり物がいつのまにかあの人の遺品になってしまったことにも、気づかないまま。
穢れた存在の意味
心地よい夜風が吹いていた。
男は鼻歌を歌いながら、夜道を歩いている。
酔いも手伝って、足元が覚束ない。
手にした提灯が鬼火さながらにふらりふらりと揺れていた。
なにやら、妙な音がする。
気づいて、ふと、男は足を止めた。
自分の足音と歌が途切れると、静寂が落ちた一辺に、
ザクッザクッと不気味な音が規則正しく響く。
一体何の音だろう。
音を頼りに提灯で照らし出す。
何もない。踏み慣らされた道、頼りない草、暗い川。
その灯りが、音を出す主を捕らえた。
「あ、あんた、何してる」
あまりの怖ろしさに総毛立った。
情けなく声が震えていたが、腰が抜けなかっただけでも自分を褒めたい。
「何って」
若い男だった。
白い面が幽鬼のように暗闇に浮かび上がっている。
「墓を掘っている」
思わず手にした提灯を落としそうになった。
も、もののけの類か。
「…そうだ、丁度良いな」
何かを思いついたらしく、若者は手にしていたものを下に置くと、
無表情のまま土手を登り近づいてきた。
逃げ出さなかったのは、足が言うことを聞かなかったからに他ならない。
目の前に幽鬼が立った。
やつれている。目がくぼんでいる。
だが男というよりも少年だった。整った顔立ちをしている。
会ったのが昼の往来だったなら、少々見とれてしまっていたかもしれない。
「すまないが」
声も出ない。
もののけというのは意外と礼儀正しいのだな。
のんきにもそんなことを思う。
「その灯り、借り受けたい」
「は?」
間の抜けた声を出した。
「灯り?」
そうだと少年は頷く。
「こう暗くては上も下も分からぬ」
「でも、これがないとあっしが困るんですが」
もののけに食われるのを灯り一つ渡すだけで避けられるなら、
渡してしまえばいいのにと思ったが、現実的な問題が先に立った。
酔いなど、とっくに醒めてしまっている。
「そうか」
少年は思案顔になる。
困った顔になると、もっと幼く見えた。
丁度男の甥と同じくらいの年頃だ。
どうやら普通の人間らしいと分かると、
男は生来の気の良さが出て気の毒な気持ちにもなってくる。
気が付けば、男は自分から提案していた。
「なら、あんたが、その、墓を、掘り終わるまで、
あっしがここで灯りを持っているというのは?
それなら、あんたは明るくて、あっしも帰りは明るい」
「なるほど」
少年は納得したようだった。
「手数をかける」
「はぁ…」
なんだか妙な事になったなと思いながらも、
男は言われた通りに土手を降りるとその場所で灯りを掲げた。
少年は、言葉の通り本当に墓を掘っていた。
およそ一尺ほどだろうか。
川辺に丸い穴がぽっかりと開いていた。
一本の棒切れで土塗れになりながら、必死で少年は掘り続ける。
「あの〜」
聞いてはいけないかな、とは思いつつも、好奇心が抑えられず、
つい男は口にしてしまう。
「なんでこんな夜中に墓なんか掘ってるんで?」
「…掘りたくなったんだ」
さいですか、と男は首を竦める。
「お前は近くに住んでいる者か」
逆に質問されて男は慌てる。
「へぇ」
「農夫か」
「へぇ」
「そうか。良いところだな、日野は」
「へぇ…」
男は目をぱちくりさせた。
「暖かい。緑が多い。田が豊かだ。私は先だってまで函館にいた」
「それは遠いところから」
「ああ、遠い。辛くて寒い土地だ」
話ながらも少年の手は止まない。
土を掻き出し、誰かのために墓を掘る。
「ここは人も暖かい。よそ者の私を受け入れてくれた」
そこまで聞いて、男は思い出す。
そういえば、佐藤彦五郎宅に函館から若者がやってきたと誰かが酒屋で噂していなかっただろうか。
今では皆口を噤んでいるが、佐藤家は新選組の土方歳三の縁家だ。
函館で戦があったことは男も知っている。
徳川様の世に遂に終わりが来たらしいと。
片田舎でも世情は伝わるものだが、その情報に現実感は伴わない。
農夫の自分の生活はなんの変化もない。
変化があったとすれば、かつての故郷の英雄が逆賊となったことを、まるでなかったことのように蓋をしたことと、
なにやら妙な服を着た薩摩の人間がえばり腐った顔で歩いているくらいか。
「どうした」
思考を飛ばしていた男は、少年の声ではっと我にかえる。
嫌な笑みを浮かべて、少年は自分を見ていた。
つ、と嫌な汗が背中を伝う。
だとすれば、この少年は新選組の生き残りではないか。
なら、この墓は…。
「人を呼ぶか?」
端正な顔がゆがめられた。
まるで傷ついた獣のようだ。
腰の切れ物に手が伸びそうだったので、慌てて男は首を振る。
「あ、あいにく、私は世情をなんも知らんのです」
少年は男を見ると、呆れた顔をした。
「それでは私を知っていると言っているようなものだ」
「そういえばそうですね…」
今度こそ、少年は噴出した。
「もういい」
そしてまた穴掘りに没頭し始めた。
人を呼んだほうが良かったのかな、と男はぼんやりと考える。
逆賊をかくまっているところか、墓まで作って拝んでいるのでは、
新政府にばれた暁には面白くない事態になることは間違いない。
ただ、声をあげていれば、その場で自分の命が絶えることは確実だった。
そうまでして新政府に尽す義理も根性もないので、まぁいいかと男は思う。
自分の考えが間違いなければ、これは土方歳三の墓だ。
土方が死んだのは三ヶ月も前だと聞いた。
何故今更、墓なのだ。
よく分からない。
よく、分からないが、痛々しい。
深夜に人目を忍んで、一人黙々と墓を掘る少年。
軽鴨が親鴨を慕い後を追うような必死さがそこにはあって、
男は声を掛けることも、止めることも出来ずに、ただそこに立ち尽くしていた。
ガリガリと土を削る音だけが辺りに響く。
どれほどそうしていただろう。
やがて、少年が顔を上げた頃、夏の夜空は明るくなり始めていた。
「随分大きい墓が出来ましたね」
男は感心して呟きながら、提灯の灯りを吹き消した。
もう灯りがなくとも、お互いの表情が分かる。
「川が増水すると、流されるかもしれないから」
なら川辺になんか掘らなきゃいいのにと思ったが、
それを見透かしたように少年は言う。
「…この川を見ていたら、急に墓が掘りたくなったんだ。
あの人が幼い頃遊んだかもしれないと思うと、ここに掘りたかった」
言いながら頬を拭う仕草が妙に幼かった。
もしかしたら俯いて穴を掘りながら、泣いていたのかもしれない。
「ああ、別に流されてもいいか。川を流れて、海に行き着くのも、いいかもしれない」
そう言って、懐から何かを取り出した。
墓を掘るといっていたから、てっきり骨を埋めるのだと思ったら、それはただの赤い紐だった。
大切そうに穴の中に置き、手を合わせると、土を掛け始める。
今度は男も手伝った。
二人無言で土を固めていく。
男にはこれが神聖な儀式に思えた。
すべてが終わった頃には、すっかり朝だった。
いつもと同じ、夏の早朝。
だが男も少年も、すがすがしい顔をしている。
少年が帰るというので、佐藤家かと尋ねた。
少年はそうだと頷くので、近いうちに会いに行ってもいいかと重ねて尋ねる。
彼ともっと話してみたくなったのだ。
少年が何故ここにいるのか、何故赤い紐を埋めたのか、
暗く澄んだ水底を思わせるその瞳に一体何を映してきたのか、知りたくなったのだ。
構わない、と少年は答えた後、だがいつまでここにいるか分からないと言った。
「ここは戦いの気配もない。銃声もしない。人の叫び声も。
火薬の匂いも、死体を焼く匂いも。平和なのは良いことだ。だが私は馴染めない」
そう言って背を向けた。
少年が口にした言葉は男に縁がないものばかりだった。
うまく想像が出来なかったので、男は大きく息を吸ってみた。
勿論火薬の匂いなどしない。
どこかの畑の肥やしの匂いがした。
きっと嫁が怒っている。朝帰りになった理由をどう説明しよう。
目を開けると、少年の後姿はもう遠くなっていた。
蝉の声がする。今日も暑くなりそうだ。