13、慈


函館の凍てつく冬は、どこか物悲しい感傷を呼び起こす。
空気は寒いというより、頬にぴりぴりと痛く、
雪に閉ざされた日々が続いていた。

春がひどく待ち遠しい。

例え雪が解けると同時に新政府軍が攻めてこようとも、今が一時の休息だとしても、
そのようなことは最早どうでも良かった。
土方は自室の窓に手のひらを当てながら外の雪を眺めている。
すぐに感覚が麻痺し、冷たいとも痛いとも感じなくなった。

死も、このように訪れるのだろうか。


「あの、市村です」
扉の向こうから掛けられた声で現実に引き戻される。
「入れ」
少年が躊躇いもなくひょいと顔を覗かせた。
振り返った土方は西洋式の椅子まで戻り、どさりと座った。
「御用とは?」
澄んだ少年の瞳が向けられた。
「うん」
返事をしておいて、薄く微笑む。


人と対峙するとき、土方は笑うようになっていた。
最初は無意識の行動だったが、人に指摘されて初めて気がついた。
この俺が、という思いと、悪くない、という思いが浮上した。
悪くない。人に笑顔を向けた時に返ってくる反応は。
皆一様に安堵したような表情を見せ、微笑み返しながら会話をしてくれる。


そうか、と思い当たった。
総司もこのような気持ちだったのかもしれない。
絶えず笑顔を発していたあいつは、人に笑いかけてもらうのが嬉しかったのかもしれない。
幼い頃から近藤家に預けられていた子供。
人の気をひき、笑顔を欲し。
だからあんなにも明るかったのか。


「茶を入れてくれ」
土方がそう言うと、市村はそれならばと切り出す。
「なら珈琲にしませんか。副長は最近風邪気味でしょう」
市村は返事を待たず勝手に作業を始めた。


少年がストーブに掛けられたやかんを取り上げる。
器具が触れ合う平和で柔らかい音が室内に小さく響く。
風邪気味だということを隠していたつもりだったが、どうやらばれていたらしい。
この頃珈琲は寒気を防ぎ風邪を直す薬としても用いられていた。
安政6年から箱館奉行所はロシア、イギリス、アメリカ等の諸外国との自由貿易を行っていて、
異国文化の急速な流入によって、その街並や衣・食・住文化が大きく変わっていた。
土方のような日本人が洋装をし、そして外国人が和服を着る、というような逆転も街を歩いていると見られて面白い。
攘夷を叫んでいた昔の自分ではそれを面白いと感じることもなかっただろうが。

巻煙草、ガラス、麦粉、時計、ブリキ、ランプ、ビリヤード。
実際外国文化は興味深い。


珈琲の飲み方はお茶と基本的に変わらない気がする。
挽いた豆を麻の袋に入れ、湯で番茶のような色までふりだすのである。
「風邪気味だと知っていたのか」
そう尋ねると、当然という風に市村は頷く。
「それが俺の仕事ですから」
このような少年が「仕事」というとなにやら可笑しい感じがする。


沖田とも違う、近藤とも違う。
試衛館の仲間の誰とも似ていない、勝気で子犬のような少年。
だがこの子犬は土方を恐れない。
今の部下たちは、京都の頃の彼らのように鬼を見るような顔で土方に怯えてはいないが、
憧れと尊敬とそして微かな萎縮を含んだ、一歩引いた態度で接するのが普通だった。
畏敬の念を向けられるのは嫌ではないが、それが始終ではうんざりする。
しかしこの少年にはそれがなく、大胆に土方に歩み寄ってくる。
その遠慮のなさが試衛館時代に戻ったような心地よさを生み出すのだ。
それを心地よいと感じるのもまた、函館に来てからの自分の変化だった。
憎まれることをかつては望んでいたのだから。


目の前に湯気のたった茶碗が置かれた。
手のひらで包み込むと、じんわりと暖かさが染みてくる。
「珈琲は苦手なんだ」
「知ってます」
市村は手を伸ばして、土方の茶碗に砂糖を入れた。気を使ってくれてるらしい。
「良薬口に苦し」
そう教訓を垂れるのも忘れていない。


土方は苦笑して飲み始める。
口に含むと独特の苦さが広がった。
市村はちゃっかり自分の分の珈琲も入れて、
部屋の隅で息を吹きかけ冷ましながら共に飲んでいる。


土方は手の中の茶碗を見た。
このお茶の暖かさもいつかは消えてしまうように、
人は流れるように自分の前から去っていってしまうとふいに思った。


感傷的過ぎる。
怖気ついたか、情けない。
そう思っても、その考えは一掃出来なかった。


生とはなんだろう。
死とはなんだろう。
もう誰も死ぬのを見たくなかった。
新政府軍に勝とうとはすでに思っていない。
時代の流れだ。維新、開国は止められない。
流れ出した一筋の水流は大きな川となり、自分はそれに抗う微々たる力だった。
しかしそれで構わないのだ。


自分が死んでいくことには何の気負いもなかったが、
この少年を巻き込んでいくのは納得がいかなかった。
そのことには何の意味も見出せない。
少なくとも土方にとっては。


「市村」
「はい?」
少年は小首をかしげて見上げてくる。
これは自分の最後の我侭だ。
こいつにとっては屈辱かもしれない。きっとそうだろう。
でも俺の我侭をかなえて欲しかった。


そして土方は考える。
面倒なことを思いついてしまったものだ。
だが裏腹に口元には微笑が浮かんだ。
次の言葉を考える。この少年にとって効果的な言葉を。
この跳ね返り者を素直に日野へ帰すことが出来る、そんな言葉を。