日々背中合わせに生きている。
得られた幸福と、それを失う不安とで。
はかない願いと理由
「うおーい!ただいまー!」
がらりとドアを開けて、自宅に戻れた嬉しさを全開にそう叫ぶと、
重たい沈黙が彼を迎えた。
「まさー?しげー?」
家の中は闇に埋まっていて、自分の声ばかりがむなしく響く。
玄関から月明かりが届く範囲の場所には動くものは見当たらなかった。
「いねぇの?」
言いながら、そんなわけがないことを彼は知っていた。
自分に知らせずにどこかへ行ってしまう妻ではない。実家に帰ってしまうような喧嘩をした覚えもない。
それなのに帰ればいつも玄関先で迎えてくれる妻がいない。
それどころか絶えず聞こえていた生まれたばかりの息子の鳴き声も聞こえない。
「・・・・おいおい嘘だろう」
自分の声が空々しく自分の耳に届いた。
胸の奥がざわざわと騒ぐ。
次の瞬間には草履を脱ぐのももどかしく玄関を駆け上がっていた。
「まさ?」
足元にあった何かがガタンと大きな音を立てて倒れたが、気にしてなどいられない。
急げば急ぐほど足元がもつれるようだ。無意識のうちに柄を握りこんでいた。
もしかしたら、留守の間に誰かが?
その想像に心臓が嫌な音をたててはねた。
長州か薩摩か、高台寺党の生き残りかが、憎き新選組十番隊組長の自宅に押し入り、妻と息子を?
嘘だ。嘘だ。
こんなことは嘘に決まっている!
「ま・・・・!!」
バコッ。
今まさに、もう一度大声で妻の名を叫ぼうとした左之助の前頭部を何か硬いものが直撃した。
ポカンと口を開けたままの左之助の目の前には、妻のまさが幽鬼の如く怒りを滲ませて立っていた。
右手には鏡箱が握られている。
鏡と同じ形をした鏡を収めるための道具だ。まさが嫁入りの時に運んできていて、
毎朝それを開けて鏡に向かっているからよく知っている。
いや、今はそんなことはどうでもよくて。
どうやら目の前の襖をあけざま、それで殴られたらしい。
「、ま」
「今何時だと思ってはるん?!茂が起きてしまうやないの!」
もう一度名を呼ぶ前に、噛み付くようにまくし立てられる。
左之助はその勢いに押されて口を噤んだ。
まさの声に答えるように、奥の部屋からふにゃ〜と情け内泣き声があがった。
「ああっ!だから言うたのに!」
呆気にとられたままの左之助には目もくれず、まさは身を翻して慌しく駆けていく。
妻の姿が消えてからも、左之助は雷に打たれたようにその場から動けないでいた。
奥の部屋からは段々小さくなっていく泣き声と、あやす妻の声が聞こえる。
左之助は額に手をあてて考え込んだ。
とりあえず、妻と息子が無事なのは分かった。
分かったが、思考が停止して復旧までに時間が掛かる。
やがて、茂を寝かしつけたのか、まさが戻ってきた。
その場に突っ立ったままの左之助を睨むように見上げてくる。
よく見れば寝巻きは着ていないがその髪が少々乱れている。
左之助が帰宅するまで待っていて、うとうとしていたのかもしれない。
「…ほんまに非常識な人」
「ああ…すまん」
自分の声のほうが大きかったんじゃないかと思ったが、懸命にも左之助はそれを呑み込んだ。
「結構痛かったんだが」
「知らへん」
フン、とまさは向こうをむいてしまう。
怒っていても相変わらず娘っぽさが抜けずない妻は可愛らしい。
しかしそれを言うとまた殴られそうだ。
やっと正常な判断が戻ってきた。
どうやら左之助の早とちりだったようだ。左之助は全身で息をつく。
「なんだ。紛らわしい…」
「何が?」
「いやいや、こっちの話」
先ほどの自分の慌てようが可笑しくなってきてにやけそうな口元を隠しながら、ぱたぱたと手を振る。
まさは胡散臭そうに夫を見上げた。
「茂の顔見てきていい?」
そう聞くとまさは思案顔になる。左之助が寝顔を見に行くと、きまって頬をつついて眠っている茂を泣かせるせいだろう。
いけないとは思いつつ、赤ん坊のむっちりとした頬をつつくという誘惑に左之助は耐えられない。
「起こさへん?」
「起こさん起こさん」
「そんなら、入り口から、ちびっとだけ」
まさの後ろについて、廊下をしのび歩く。
茂が生まれてからは我が家の生活は息子中心になったと左之助は思う。
大の大人が二人して自宅で忍者ごっこだ。
家に帰った十番隊組長がこそこそと廊下を歩いているなんて、屯所内の誰が思うだろう。
「最近なかなか寝付かへんくて…。疳の虫やろか?どない思う?」
「ほっときゃそのうち直るさ」
「…そう言うと思てました」
暗い廊下にまさの白いうなじと細い首筋がぼんやりと浮かび上がっていて、しばし目を奪われる。
その視線にも気づかない妻は部屋の襖をそっと開けると、中を覗き込んだ。
「良かった。よう寝てるみたい」
振り返って、無邪気に大輪の花のような笑顔を向けられた。
そして聞こえてくる息子の幸福で穏やかな寝息。
もうそれだけで充分すぎるくらいに幸せだと思った。
そして生まれるささやかな願い。
どうかいつまでもこのまま、家族皆で居たいという想い。
そう願うのは、誰よりも大切で、何事にも代え難いほど愛しているという、
たったそれだけの簡単で単純な理由ゆえなのだ。
「ああ。そうだな」
そう答えながら、まさが息子にばかり気をとられていることに軽く嫉妬して、その首筋に不意打ちで唇を落とす。
その感触に抗議の声を上げた妻に左之助は笑って、振り返ったその頬にも口付けを。
もし、本当に自分が二人を失っていたらどうなっていただろう。
考えたくもない想像が現実になる可能性も少なくないのだ。
それでもやっぱり、この腕を手放せない。流浪を重ねた自分がやっと手に入れた帰る場所。
「まさ、腹が減った」
「なんやの。この状態でその台詞」
腕の中から呆れて見上げてくる妻が、不定期に帰ってくる夫の食事を常に用意していることを左之助は知っている。
些細なことといえば些細なこと。
しかしそんな些細なことが明日へと繋がる未来を信じさせていて、左之助を幸福にしている。