第一話火起こし
冬の朝、起きて最初の仕事は火起こしである、
下女であるふきは誰よりも早く起きて、各部屋とへっつい(竈)に火を入れなければならない。
別に誰に強制されたわけではないが、それはいわば武家の出であるつねと共に嫁ぎ先にやってきた、
下女としての矜持であった。だから目が覚めるとまず眠気も夜着への誘惑も吹き飛ばす勢いをつけて、
えいやっと起き上がる。そして震える手で着物を着込み、火打道具と付け木使って、
まず囲炉裏に火を起こす。そこを暖めておいて、その間に火もらい桶に火種を入れて
火鉢に火を入れに行くのである。
「お早う、おふきちゃん」
廊下で顔をあわせたのは源さんだった。
「お早う御座います!」
お互い吐く息が白い。
「私はもう着替え終わったから火はいいよ。先生たちのお部屋に持っていってあげて」
「はい。でも源さんが寝てる間に火をつけてやろうと思うのに、
また負けちゃました。起きるのいつも早いですねー」
源さんは笑いながら「だって私は年寄りだから」と言う。
もちろんふきは源さんが言うほどの歳ではないことを知っている。
源さんはここの門下生なのに、ちっともふきに大して偉ぶったところがない。
むしろふきと同じように下働きをしたがるのだから変わっている。
ふきは源さんが好きだ。彼が気安く接してくれるから「源さん」などと呼べるのだ。
「じゃあ私は台所の支度をしてくるよ」
「はい。お願いします」
ふきはそれぞれの部屋へ向かう。ただ火を入れに行くだけでも、それぞれ反応が違うから面白い。
土方さんと沖田さんは妙に聡いから、そっと襖を開けただけでも目覚めてしまう。
山南さんはいつも直立不動でまっすぐ上を向いて寝ていて、ぴくりとも動かないからちょっと怖い。
原田さんは夜着を来ていて寝ていたためしがないし、藤堂さんと永倉さんはいつも礼儀正しくお礼を言ってくれる。
ここに住んでいる人たちは変わっているし職はないし、近所ではバラガキと名高いけども、
ふきは結構ここが気に入っている。ふきはやれやれと背伸びをした。
そのうち起きだした人たちがお腹をすかせて囲炉裏に集まりだすだろう。
下女の一日は何かと忙しい。以前は源さんとふで様と二人だけで家事をこなしていたというのだから驚きだ。
「あーあ。私もお腹すいた」
ふきは腕まくりをして源さんのいる台所へと向かった。
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題ニ話「女の身だしなみ」
春も近いある日、ふきはふでに呼び出された。
大奥様であるふでは試衛館の大柱といったところである。
大旦那様は人が良いが、どうも優柔不断で大奥様の尻に敷かれている風情がある。
ここの司令塔は大奥様だと越してきてから知ったふきは、
様々な指示はこっそり大奥様に仰ぐようにしていた。
下女にとっては上の正確な見定めも重要である。
そのつねの呼び出し。何か粗相でもと思い恐る恐る着いていったところ、
「これ、あんたにあげるわ」
と言われ差し出されたのは紅だった。驚きのあまり、ふきはぽかんとする。
「本当は嫁が来たら渡そうと思っていたんだけどね、
つねは着飾ることに興味がないみたいだし。私には色が若すぎるし」
「でもこんな高価なもの!」
ふでは江戸っ子らしく大きく笑った。
彼女はいつも身の回りに気を使っていて、年を召していても若々しい。
「私の若い時の紅だから、使い古しだけど、良かったら使って頂戴な。もうすぐ花見の時期だしさ」
そう付け加えられて、あ、とふきは思い当たってしまう。
そうだ。もうすぐ花見なのだ。
花見の季節が近づいてくると江戸の庶民は浮き足立つ。
花見は当時の人々にとって大きな楽しみであり、一大行事だった。
老若男女問わず揃って出かけ、東叡山寛永寺、浅草観音、四谷自性院、芝大仏、渋谷金王八幡等の名所には
大勢の人々が行き交い、物売りが立ち、見世物が出た。
だからこの時期、女性達の話に上るのは着物の話、化粧の話である。
といっても下働きのふきには何の関係も無いことだった。
花見には毎年出かけていたが、それは奉公先のお家が出かける花見であって、
ふきは給仕に従事せねばならず、ふきの関心ごとはどちらかといえば花見弁当の中身だった。
しかし試衛館では少々勝手が違うらしい。
ここでは使用人と食客と門人の区別がとても曖昧だった。
一緒に暮らしている以上家族、という概念があるらしく、
武家で上下関係厳しく躾けられていたふきは戸惑うことが多い。
花見に関してもそうだ。
一緒に着飾って楽しく遊ぼうと言う酒肴であるらしい。
源さんと弁当の打ち合わせをしていて着物のことを尋ねられ、驚いたのはつい先日のことだった。
「で、でも私花見とか行ったことなくて…!いや、あるんですけど、ないっていうか」
「どっちなんだい」
「とにかくどうしていいか分からないので、私お留守番しています!」
「折角の花見なのに?勿体無いじゃないか」
どれ、とふでは小指で紅をすくった。
「あんた、つねは化粧なんかしないから、紅の差し方もろくに知らないんだろう。
こうやって、指で取るんだよ」
「はい…」
絞首刑のような気分で鏡台の前に行く。鏡に映る自分がひどく情けない顔をしていた。
「叩くように乗せるの」
「ううう…」
唇に指があたる感触に目を閉じてしまった。妙に胸がドキドキしてくる。
そういえば紅を塗るのなんて七五三以来だ。
できたよ、という声に微妙に期待して恐る恐る目を開ける。
しかしやっぱり情けない顔があった。
「おかめみたい…」
「何言ってんの!年頃なんだから化粧ぐらいしないと。
ほら、花見でどこぞの旦那に見初められることもあるんだから」
はぁ、と返して再び自分の顔を見やる。
ふでが親切でしてくれているのは分かっていたが、
こんな顔を世間に晒して歩かなければならないとは。今から花見のことを思うと憂鬱だった。
その日はそれからどうも落ち着かなかった。
門人の誰か、沖田や土方あたりに気づかれてからかわれたらそれだけで憤死しそうだ。
始終俯いて、彼らをやり過ごす。しかし誰も気づかない。
はて?と思い普通に顔を上げた。やっぱり誰も気づかない。
結果、意に反して誰も、何度もふきと顔を合わせる源さんでさえ、ふきの紅に気づかなかった。
…それはそれで腹立たしいというか、何というか。
こん畜生と思いながら、風呂場でふきは唇を思いっきり拭った。
試衛館花見の日まで後数日。
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題三話「花の頃」
隅田川の土手が桜色で一面に塗りつぶされる。
その側を表情も見目も華やかな人々がそぞろ歩きしていた。春やいだ風景だ。
「こんなに沢山人がいると花を見てる気がしないね」
「そお?私は大勢でするほうが楽しいけど。一人で花見ててもつまんないよ」
「そうかなぁ」
平助と総司の会話を聞きながら、ふきは桜湯をすすった。
堤防では桜の季節に茶屋が並び、桜花を塩漬けした桜湯を飲ませる。
飲んでいる湯は去年の桜。見ているのは今年の桜。
また来年、今見ている桜を飲むのかと思うと不思議な感慨がある。
「あっ!」
総司が急に声を上げたので、ふきは文字通り飛び上がった。
「な、なんですか」
お湯をこぼさないように抱えて、二人の方に顔を向ける。
試衛館でも若い二人は澄んだ目をくりくりさせながらこちらを見ていた。
「良いねその仕草」
「仕草?」
聞き返して怪訝に眉を寄せる。そんな突飛な行動をしただろうか。
「湯飲みのふちの、紅を拭う仕草」
「ああ…」
言われて気がつく。ただ単に洗う人が大変だろうと思ったから、
ついた紅を指で拭っただけなのだが、そんなものを指摘されたのだとは思わなかった。
「男って変なところ見てるんですね」
「女はどんなところを見てるの?」
「大酒飲みじゃなくて博打を打たないで、日々小銭を稼いできてくれる人なら誰でもいいです」
「それ、私達に対する嫌味?」
「いいえ。そう聞こえるなら何か後ろ暗いところがあるんじゃないですか」
聞いていた平助はついに噴出した。
丁度前の土手を千鳥足になった原田と永倉が歩いている。
こちらに向かって手招きをするように手を振っている。
三人で大きく手を振り返した。
どこからか三味線の音が聞こえている。
明日の朝ごはんは大根の雑炊に決定だ。皆二日酔いだろうから。
ふきはそう考えながら降るように散る花弁を眺めた。
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題四話「風漢」
「おふきちゃ〜ん。何か食わして」
夜も深けた頃、猫なで声を出して帰って来たのは永倉である。
「またですかぁ?」
と言いながらも、台所を預かっている身としては嬉しい瞬間でもある。
江戸は一人身の独身男が多く、遅くまで開いている屋台や飯屋も多かった。
そこに寄らずに腹をすかせて帰ってくるのは、ふきの料理を認めてくれているからだろう。
懐事情が苦しいという理由も考えられないではないが、まぁそこは良いほうに考えるふきである。
「残りもんある?」
「ん〜今日は蛤なべだったんで。冷ご飯にぶっかけます?」
「いいねぇ。そうしてそうして」
蛤は海に近い江戸では年間を通して日常的な食材だった。
蛤なべ(はまなべ)は蛤を煮て酒を落とすだけの単純素朴な料理である。
蛤の他の料理法としては田楽や、叩くかすり潰すかした蛤を卵とあわせてから蒸すしぐれ蛤、
などがあるが、簡単で美味しくて口が開いたものからすぐに食べれるという点では蛤なべは圧倒的に好まれた調理法だった。
「お仕事ですか」
「まぁね。日雇いだけど。やんないと金も入んないし」
しばらく火をくべて鍋を暖めて、汁をご飯にかけたどんぶりを永倉の前におくと、
湯気の向こうに永倉の幸せそうな顔があった。
「お疲れ様でした」
「うわぁ。そんなこと言われると結婚したくなっちゃうよ俺」
「……」
待ちかねたとばかりにご飯をかきこむ永倉を背に、ふきは空になった鍋を洗い出した。
「でも永倉さんはお国を脱藩してきたんでしょ?」
「そう。よく知ってるね」
しばらく暮らしていればそれぞれの事情もなんとなく耳に入ってくるものである。
もとより永倉は乱雑に振舞っていてもどこか品の良さがあった。
例えば物を食べる時や座っている姿勢や笑い方や、うまくいえないがそういうところに。
「お国に奥さまとか」
「いねぇよ。なに俺に興味あるの?困ったなー」
「残っていれば仕官して一生安泰だったでしょうに。どうして江戸へ?」
「…さらりと流したな。その質問はここにいるどの奴に聞いても同じだと思うけど」
「同じ?」
振り返ると永倉は飯を咀嚼しながら「そ」と答えた。
「そんなんつまんねぇからに決まってるだろー」
「つまんないって…」
「ほら、江戸って何か起こりそうで面白そうじゃん。
来て見たらただのデカイ町だったけどさ。まぁ色んな奴はいるし飽きはしないね」
永倉はあっけらかんとそう言うと、空の茶碗を置いて立ち上がった。
「じゃ、ごちそーさま」
満足げな笑顔でふきの頭を撫でると、自室に戻っていく。
ふきは永倉の言葉を反芻してしばし考え込んだ。
茶碗を拾い上げて、小さくため息をつく。
「つまんないか…」
この時代女性の街道の出入り、特に江戸から地方に行く道は特に厳しく制限されていた。
お伊勢参りなどの正当な理由がなければ、女性は江戸から出ることも叶わなかったのである。
つまらないというだけですべてを捨てて見知らぬ土地にいくなんて、
女性であるふきには物理的にも経済的にもなかなか出来ないことだった。
だから決意だけでそれを為してしまった彼らの生き方が、ほんの少し羨ましくも思えた。
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題五話「ひなたみず」
突き抜けるほど晴れた青空が、頭上一面に広がっている。
光に満ちている庭も、立て掛けられた箒の位置も、何も変わっていないことが
ふきを安心させ、同時に切なくさせた。こめかみの後れ毛を風が攫っていく。
「ふき、体が冷えるわ」
縁側で座り込んでいるふきに、つねが声を掛けてきた。
ふきはゆっくりと振り返る。最近体が重くて、動作まで緩慢になってしまうのだ。
「申し訳ありません。押しかけておいて、結局何もお手伝い出来なくて」
「何言ってるの。今は大事を取らねば。もう料理は出来たのよ。後はお客様を待つだけ。
ふきはもう着帯の日は終わったのでしたか?」
「はい先月に」
答えておいて、膨れ始めた腹を撫でた。つねはその様子を目を細めて見ている。
「私がたまを身ごもった時も、勇様は大変な騒ぎようだったわ」
「旦那様が?」
意外であったので聞き返した。その頃はふきも同じ屋敷に住んでいたけれど、
そんな風に近藤が慌てふためいているのを見た覚えがない。15歳のふきにとって、
近藤をはじめ、試衛館の面々は皆一様に大人に見えた。
「そう。妊婦と過ごした経験がなかったのね。私のつわりがひどい時は真っ青になって、
どうすればいいのか言ってくれってオロオロしていたわ」
二人は目を合わせて笑う。
今なら分かる。28歳は思っていたほど大人ではなかった。
近藤も土方も山南も、今のふきと同じように悩んだり苦しんだり、
小さなことで一喜一憂したりしていたのだろう。若かったふきには、
うまく見えなかったけれども。そのことが今でも悔やまれる。
「いらしたみたいね」
つねが玄関のほうを覗き見た。視線を追っていくと、丁度斉藤…いや今は藤田か、
藤田夫婦が連れ合って門をくぐるところだった。何か言い争いをしていて賑やかだ。
よほどの用事がない限り、彼らは近藤の命日にこうしてやってくる。
あの頃皆で過ごしたこの屋敷で、つかの間の再会を祝いあう。
時間は人々に平等に訪れた。癒えることのないように思われた深い傷は徐々に癒え、
絡み合った糸も優しく解けていった。懐かしさだけを思い起こさせる、思い出話ができるほどにまで。
その変化は日なたに置いてぬるくなった水のよう。緩やかに。そして確実に。
「お帰りなさいませ!」
ふきが大きく声を掛けた。あの頃のように。
すると斉藤は一瞬目を見張って、
当時は見せることのなかった穏やかな微笑を返してみせた。
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