その一 「はじまりの場所」

朝が来る。
山の端からゆっくりと霧が立ち昇っている。
伏した竜にも見える連なった山々から、息吹のように煙るそれは、
暖まった水分が蒸発し、拡散していくものなのだ、と知識では知っている。
だがそこには、理屈を超えた美しさがあった。
毎朝見慣れているはずの風景に、久坂は飽きずに見とれている。
美しい。自然の織り成すものに、美しくないものなどないと、久坂はそう思う。


「またあの狭い講義室に、鶏のように閉じ込められるのか。
野郎だらけで肌を寄せ合うのは真っ平だと思わないか、玄瑞」

前を行く高杉が、いつもの不機嫌顔で横柄に口を利いた。
しかし彼は本当に不機嫌なわけではない。
むしろああいう風に早口で、士族らしからぬ乱暴な言い方をするのは、
彼がご機嫌である証拠だった。高杉という人物は初対面の人間には理解しがたく、
そして親しいものにとっては非常に分かりやすい種類の構造をしている。

「冗談でも感心できない発言だね。イヤなら行かなければいいんじゃないかな」

高杉の暴言には慣れっこだったが、建前上久坂はそう注意する。
しかし久坂の言葉を前を行く友はそれをさっくりと無視した。

「しかも次は夏が来るんだ!おぞましい!お前四方八方を汗まみれの男に囲まれたいか?!」

とんでもなく重要なことに気づいた!とばかりに振り返った高杉の愕然とした顔を見て、
久坂は思わず噴出した。
村下村塾に向かう道中で、毎朝高杉は色んな話を振ってくる。
どちらかと言えば大人しく生真面目な久坂にとって、高杉の突飛な発想と流暢な話術は
刺激的であり、次々と新しい遊びを思いつき実行した子供時代の彼を思い起こさせた。
そして自分達は彼の遊びの渦に巻き込まれて、我を忘れ日が暮れるまで遊んでしまい、
家に帰った後昏々と叱られるのだ。
彼の発想は、今も昔も留まることを知らない。

「君って本当に面白いね」
久坂はしみじみと言った。

「何を悠長に!このままでは塾生はどんどん増え続けるんだぞ。
…そうだ場所を増やせばいいんだ。これは名案。僕達で家を建てよう玄瑞!」

「家なんてそうそう簡単に建てられるものじゃないよ。
君はなんだって、自分の力で出来てしまうと思いこむ癖がある。
だいたい、今は冬。次は春。夏はまだ先だよ」

「お前こそ、時間は無限にあると思っている節がある。
時というのは自分が思っている以上に早く過ぎてしまうものなのだよ。
そんなのんびりしてたら、すぐに夏が来て、また冬が来る。時代は動き、機を逃すことになりかねない」

「話が飛躍していない?」
「いやおんなじだ」
「そうかなぁ」
「つまりは機と勢いが大事だということだよ」

真っ白な土塀の続く大通りを真っ直ぐに高杉は進んでいく。
城を背にしてこの通りをひたすら東に行き、松本川を越えた山の麓に松陰先生の私塾はあった。
通いなれた道だ。向こうで待つ唯一無二の師や友人達の存在も永遠ではないと、
分かっているのに、その変化と終わりがうまく久坂には想像できない。

「高杉ー」
どんどん早足になる猫背の背中に呼びかける。んー、と半分上の空の答えが帰ってきた。
「先に行ってしまうなよ!」
久坂が密かに親友だと思っている男が振り返る。
そのキョロキョロと落ち着きのない瞳が、可笑しげに細められた。
「なら遅れずに着いてこい玄瑞!」

笑顔の輪郭が、朝日で眩しく霞んで見えた。


2/20


萩妄想編。
萩に行くとき、長門からローカル電車に乗ったのですが、
時々ぱっと視界が開けて山間に海が見える場所があって、
日本の風景って美しいなぁとしみじみと思いました。
1858年、松下村塾増築前のお話。久坂20歳、高杉19歳。
長州に明るくないため、めっさオリジナル。
天才変人ガキ大将高杉。そして高杉みたいになりたくて、頑張ったけど
なれなかった久坂さん(禁門の変)というイメージ。



その二「闇を裂く」

気がつくと、鴨川を見つめるのが癖になっている。
「あの川のどこが好きなんだね。罪人の首を晒すような川だよ」
と桂は笑うけども、あれは私にとっては縁起の良い川だ。
生え茂った草は逃げゆく者の姿を隠すのに都合よく、
屋敷の抜け道から逃れ出た桂の命を救ったのも一度や二度ではなかった。
昼間でも人が寄り付かない川辺は静かで、草のせいで川自体の姿は見えないが、
水の流れる音だけは常にさらさらと響いている。
夜になれば月が出て、和歌で聞いた武蔵野のような風景になるもの好きだった。
ここから見える鴨川は私だけの鴨川。愛しい人を守る川。

もうそろそろ桂が帰ってくる時間だ。
立ち上がって夕餉の用意をしなくては。
頭では分かっているものの、痺れたように体が動かない。
時々、こんな風に広がる不安に勝てなくなるときがある。

昨夜までこの屋敷で熱く軍議を交わしていた人たちが、
翌日にあっさり欠けてしまう恐ろしさが誰に分かるだろう。
この京都のどこかの汚い路地裏で、彼らの遺体は見つかるのだ。
猫の死体と大差ない軽さで、それらは放置されている。
優秀な官吏になるはずだった。笑顔は希望に満ちて高潮していた。
でも二度と戻らない。昨日までそこにあったのに。
一人、一人と。
仏も神も何も信じられなくなった。
彼らは慈しまれて天啓を受けた者さえ、簡単に奪っていく。

次は誰の番なのだろうと身が震えた。
桂の番ではない保障はどこにもなかった。
幾ら彼が策略化で先見の明に長けていても、多数の刺客に囲まれてしまえば、どうしようもない。
だから私は、刀を持たずに出来る戦いを考えた。
一気に踏み込めない狭く長い玄関の間口に屋敷の抜け道、仕込み天井にいざという時の金子。
気の緩みは死を意味し、ここには桂を守るものが揃えられている。
そして私自身も、その一つになりたかった。
優秀で失敗をしない彼の武器に。守り刀に。
たった数秒でも敵の足止めをし、彼を逃がしうることが出来る武器に。

石畳を歩く音が聞こえてきて、幾松ははっと顔を上げた。
慌てて立ち上がって、駆けていき、玄関の扉を開ける。
「幾松?」
朝出て行ったときと同じ着物を着て、少し疲れた顔で桂は立っていた。
いつの間にか霧雨が降り出していて、冷たい夜気が開けた玄関から流れ込む。
「もしかしたら寝ていたのかい?珍しいことがあるものだね」
それは事実ではなかったものの、きっと今の幾松は寝起きのようなぼんやりとした顔をしているのだろう。
彼は滴る番傘を畳みながら首を傾げて、「ただいま」と柔らかに言った。
幾松は微笑んだ。
どうか明日もこの言葉を聞けますように。
外では隙を見せない桂が、安心して疲れた顔を見せてくれますように。
「桂はん、お帰りやす」
微かに鴨川の清らかな水音がして、
私は研ぎ澄まされた彼の鋭利な武器になる。



11/20



…最後の一文が書きたかっただけです。
幾松さんはただの受身の女性でなかったあたり、
この時代では珍しく、そしてかっこいい人だなぁと思います。
ていうか、必死だったんだろうな。