私のものと言えるものはいったいどれだけあるのだろう。
確かに手にしたと思ったものは、いつのまにか両手から零れ落ちてしまったことに、
今更ながらに気づいた。










鮮やかな
喪失に見る










髪を振り乱して走ってくる女性があったので、
屯所の入り口をくぐろうとしていた沖田は足を止めた。
何だろうと思っていたら、その女はまっすぐに屯所のほうへと向かってくる。
ぼんやり見ているうちに、女はそのまま中へと走りこみそうになった。

「ちょ、ちょっと、お待ちなさい」

さすがに慌てて沖田が引き止めた。
荒っぽい男ばかりの浪士集団の住処に近所の女子供は近寄ろうともしないというのに。
一体何事だというのか。

沖田の言葉に、はつと女が振り返った。
美しい女だった。

「あの人は」
息急くように女が言う。

「あの人?」

女が沖田に掴みかかってくる。おい、と入り口に立っていた隊士が咎める声を出す。

「山南はんはっ」

沖田は息を呑んだ。
ではあなたは。言いかけた言葉を無理矢理飲み込む。
その様子が女にも伝わったのか更に女は詰め寄ってくる。

「あの人はどこどす?会わせて、会わせておくれやす!」

「やめないか、おい」
間に隊士が入ってこようとするのを、沖田は目で制する。

「…山南さんは今は時を待っています。面会はかないません」
感情を抑えて沖田は言った。
体の外に出した途端、体温が下がっていった気がして、沖田は目を伏せる、
なんという、冷たく残酷な言葉。
瞬間、女は沖田を見上げたまま、ぶるぶると唇を震わせた。










脱走した山南と共に沖田が屯所に戻ったのは今朝のことだった。
その日のうちに切腹が決まった。
今、屯所内では切腹の準備で慌しくなっていることだろう。

沖田自身はもう、昨夜のうちに話すべきことは話し合った。
後は取り乱さぬよう、山南の最後を飾るのが自分にできる唯一のことだと思っている。

説得もした。訴えてもみた。それでも決意に揺らぎがない人に、他の人間が出来ることがどれだけあることだろう。
受け入れること。
沖田はそう思っている。

しかし突然訪れた親しい人の死に取り乱さないでいられる人間がいるだろうか。
誰が使いにやったのかは知らないが、
この女は山南切腹の知らせを受けて文字通り飛んできたのだ。
着物は着崩れ、髷は歪み、化粧さえせず。
それなのに、美しいと思える女性。

と、いきなり女は踵を返して、門へと疾走しだした。
今にも倒れそうだった様子から一変したその行動に、
一瞬ぽかんとした沖田と隊士は、我に返って慌てて女の背を追いかける。
女の足とは思えないほどの素早さで、二人を振り切り女は駆け込んで行った。

「山南はん!」

中庭で女は絶叫していた。
隊士たちがなんだなんだとあちこちから顔を出す。

「山南はん!」

女を抑えていたのは斉藤だった。
騒ぎを聞きつけたのだろう。
女は抵抗していたが、力で敵うわけがない。
斉藤は無表情で門の方へとずるずる引き摺っていく。

「申し訳ありません、斉藤先生」
見張りの隊士が頭を下げるのに、うん、と頷きながら、
斉藤は沖田の方を見る。
沖田は苦笑して、首をかしげて見せた。
斉藤はいいの?という風に瞬きをする。

「君は持ち場に戻ってください。この人は私に任せて」
はぁと恐縮する隊士から、斉藤に向き直る。
「こっちです」
「いやぁ!」
叫んだのは女だ。
暴れ続ける女を門の外まで引き摺って来ると、沖田は女に囁いた。

「静かに。今山南さんに会わせてあげるから」

女は目を見開く。頬が涙に濡れていた。
「静かにね」
再度確認して、女と裏手に移動した。
山南が謹慎している部屋には外に面している小窓がある。
そこまで女を連れて行くと、沖田はそっと窓を叩いた。

「…山南さん」

やや間をおいて、中から返答があった。

「総司か?」

微かな隙間が開き、驚きを隠さない山南の声がした。
女は斉藤の腕を振り解くと、窓に噛り付く。

「山南はん…!」
「お前、どうして…」

呆然として沖田と斉藤の顔を交互に見た山南は、その瞳から事情を察したようだった。
「ありがとう」
沖田はただ首を振った。
山南と女の会話を背に、二人はその場を離れた。










「女はすごい」
沖田の言葉に斉藤は横目でこちらをちらりと見て、ぼそりと言う。
「小指切るくらいだからな」

遊女たちは一途だ。
好きな相手にその証拠として髪を切ったり、彫り物りをしたり、
更に最上級の真剣な誓いを立てる場合は小指を切って相手に与えるほどに。

「大丈夫?」
物思いに沈んだ沖田に、ふいに斉藤が言った。
沖田は顔を上げる。

「沖田さんのほうが、辛いんじゃないか」
「…そんなことは」

斉藤は何も言わない。
歩みを止めた二人に冬の明けきらない凍てついた空気が漂って来た。

「斉藤さん」
「ん」
白い息が、空へと昇っていく。

「生きていると、沢山失くしますね」
「そうだな」
斉藤の声は穏やかだった。

「でも、また得るものもある」
斉藤の言葉に沖田は微笑んだ。
失くして、得て、そうして日々は廻っていく。

失くすのはあっという間で、無慈悲で、
それでも恐れてはいられない。
留まってなんかいられない。
人は生きていかなかればならないから。

「はやく春が来ないかな」

沖田が言うと、黙って斉藤は塀から伸びて垂れ下がっている木の枝を指差した。
その方向を見ると青柳が硬く芽吹いて、静かだが確かに、春の到来を告げていた。