自分が剣で斬られる以外の方法で死ぬ可能性なんて、
考えてもみなかった。
あふれる絶望と鼓動
咳が出た。
最初は、風邪をひいたのだと思っていた。
しかし突然立て続けに起こったそれは息継ぎも出来ないほどで、
明らかな異常を自身の体が訴えていた。異常。見逃しようもないほどの。
これは何なのだ。
手のひらに血がついた。
さらに奥から何かがこみ上げてくる不快感に胸を掻き毟る。
感じたのは剣で向き合った時にも感じたことのない恐怖だった。
なす術もなく生理的欲求に身をゆだねる。永久とも思える長い時。
これはきっとタチの悪い冗談なのだ。震えが止まらない。
自分は死ぬのだろうか。
このまま、誰にも気づかれず見取られず。
無力に。
嫌だ。
死にたくないと吐きそうなほど思った。
死にたくない。こんなことで。
生きることに、自分がこれほど執着を持っていたなんて知らなかった。
震える指を握りこんで呼吸を整える。
胎児のように身を縮めて、不幸が過ぎ去るのをただ待ちたかったけれど、
やってきたのは無情な現実と、いっそ死んでしまいたくなるような絶望感だった。
「生きている」
目が覚めて一番最初に聞いた言葉はそれだった。
生きている。
まるで言い聞かせるかのように、そう総司が認識しなければ死んでいってしまうかのように、
重々しく声は聞こえてきた。生きている。
総司はその言葉を噛み締める。
息を吐き出したつもりが、耳に届いたのは故障した気管の悲鳴で、
心臓が変な速度で走り出す。
生きている実感など感じる暇もないまま、再び恐怖が襲った。
眉を寄せて必死で息を吸う。駄目だまた死んでしまう。
総司はばたつく魚のように首を振った。
するとなだめるように胸の上に手が置かれ、
頭が軽く持ち上げられた。唇に何かが当たって、
ゆるりと冷たい液体が咽喉を伝う。
水だと理解するのにしばらくかかった。
ほんのりと甘く体を満たして、その感触に安堵する。
全身でため息をついた。ああ、生きている。
視界は雲掛かっている。そもそも目を開けているのかすら定かではなかった。
浮遊する感覚の体を持て余し、聴覚も触覚も胡散だ。
焼けるように、咽喉が熱い。
「総司」
優しく呼ばれた声に、意に反して、涙が零れた。
ああ、駄目だ。もう少しもう少し生きていたい。
ずっと手に入らないと思っていたものが、やっと手に入ったというのに。
あの夜。表舞台に飛び出した夜。
ずっとずっと夢見ていた。
日の当たる場所に出ること。
大好きなあの人たちが真っ当な祝福と尊敬を得ること。
認められること。頼られること。役に立つこと。
笑いかけられる顔。総司と親しげに呼ぶ声。頭を撫でる手。
辛い時。悲しい時。憤りを感じる時。喜びに身を震わせる時。
そのすべての感情を共有することの出来る仲間、友人、家族、大切な人。
膝をついた時、まだ加勢はおらず、近藤たちが下階で戦っていた。
助けに行かなければ。自分が行かなければ。
どうして、このまま死んでしまえるだろう。
こんな大事な時に、側に居られないなんて。
これからやってくる幾千もの戦場で自分が盾になれないなんて。
なんのための剣だ。なんのための自分だ。
反対されてもこっそりと竹刀を握って稽古をした日々。
褒められると嬉しくて誇らしくて、どんな稽古も苦にならなかった。
優しくしてくれた。怒ってくれた。泣いてくれた。心配してくれた。
自分がもらったものを、これで返すのだとずっと思っていたというのに。
今、この時に。どうして。
思考の回転が落ち始める。
胡散だった感覚がさらに遠くなる。
だめだいしきをたもっていられない。
ねがいがかなうなら、もうすこしもうすこし。
あとすこしだけ。
突然手のひらを強く握り締められた。
痛覚が一瞬総司を引き止めるけれど、意識はなす術もなく奈落の底に落ちていく。
必死でその手を握り返した。ごつごつと大きい、見知った手のひら。
「総司、心配しなくても大丈夫だ。大丈夫だから」
もう一度、名前を呼ばれた気がしたけれど、
気のせいだったのかもしれない。
再び目が覚めると、辺りは暗闇だった。
瞼を開けても同じ闇しか訪れないから、てっきり失明したのだと思ったがそうではないらしい。
一体どのくらい眠っていたのだろう。誰の声もしない。静かだ。
瞬きをすると、頬がかすかに引き攣れる。涙が乾いたせいだと分かる。懐かしい感触だった。
右手を持ち上げて、頬を擦った。感覚は正常に訪れる。
指も足も腕も、あるべき場所に収まっているのを感じ取れた。
首を持ち上げる。まるで何年も眠っていたみたいに、関節が悲鳴をあげた。
起き上がるのは諦めて、大人しく枕に頭を戻した。
ようやく気がついたけれど、熱があるらしい。額に乗せられた布がひんやりと冷たい。
死ななかったのか、と総司はぼんやり思った。何の感慨も感傷も湧かなかった。
よくよく考えれば労咳といえどただの一回の喀血で死ぬわけがない。
昏倒した時に敵に斬られていた可能性はあったが、
それが起こらなかったのは幸運なのか不運なのか判断がつかなかった。
どちらにしろ、じりじりと削り取られるように体力は萎えていくのだろう。
まるで他人事のように考えている自分が不思議だった。
ふと尿意を感じた。
やはり起き上がらなければならないなと総司は思う。
肘をついて、渾身の力を込めて背骨を持ち上げる。
そこで左手に何か重いものが乗っていることに気づいた。
自分では感覚が戻っているような気がしていたが、時間差でやってくるそれに苦笑しながら、
左手を見る。何か黒くて丸いもの。目を凝らす。
文鎮だった。
「…?」
何故、文鎮。
しかも総司のものだ。唐草模様が刻み込まれた楕円系型の。
何の意味があるのだろう。おまじないだろうかと苦し紛れに考えて、
次の瞬間それに思い当たる。思わず噴出した。
手を握っていたのだ、土方の。
最初に目覚めて、眠りに落ちるまでのわずかな間に。
きっと総司は意識が亡くなってもその手を離さなかったのだろう。
生への執着と同様に込めたその力加減ゆえに。
そして困った土方はどうしたか。
変わりに文鎮を握らせたのだ。そこら辺にあった、総司の。
笑い出すと止まらなかった。咳が起こりそうになるのを堪えて、
肘をついた体制のままそれこそ死ぬほど笑った。
目じりに浮かんだ涙を拭って、きちんと身を起こした頃には、
友人たちの安否が気になっていた。
皆無事なのだろうか。どこも怪我をしていないといいのだけれど。
体から一拍遅れて、心が正常に動き出す。
土方の手のひら代わりになっていた文鎮を、
そっと畳の上に置いて、総司は立ち上がる。
眩暈を覚えたけれど、しばらくその場でじっとしていれば収まった。
全身がだるさを訴えていたけれど、耐えることのできる程度だ。
まだ、生きている。
笑える。立ち上がれる。誰かと共にあることも出来る。
この身を憂いて一人蹲っていることに何の意味があるだろう。
斬られるのが早いか、燃え尽きるのが早いかなんて、どうせ誰にも分からないのだから。
手探りをしながらもこの手は光を求めるのだ。
それだけはずっと変わらない。
近藤の暖かみに、土方の無愛想さに、仲間たちの笑顔に、
ただ会いたくて総司は襖を開ける。